北朝鮮とキューバの間で


                                                      高 橋   恒

 ここに二つの国がある。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とキューバ(キューバ共和国)である。  北朝鮮は、現在、拉致問題と核開発で問題となっている。面積12万1千平方キロ、人口2,260万人の小国である。
 キューバは、面積11万平方キロ、人口1100万の同じく小国で、最近「キューバに自然循環型社会のビジョンを見る」などとも紹介されている。
 この二つの国は、いずれも最後まで残った社会主義国でありながら、その現状はまったく異なる様相を示している。
 このことは、一国がどのような歩みをするかは、主体的条件と客観的条件の違いによって、まさに多様なものであることを物語っている。

 北朝鮮は、朝鮮戦争の停戦ラインを挟んで韓国と対峙しており、隣国日本には米軍と自衛隊がいる。必然的に軍事国家たらざるを得ず、ミサイルや核の開発に走った。そのためにいやでも近代技術を恃まねばならず、農業の整備の手を抜いた。旱魃もあって飢饉に襲われ、難民の流出を惹き起こしている。このアンバランスは政治意識と社会意識の面にもあって、社会主義を儒教的な家父長制で支えるという国家体制をもたらしている。日・米・韓に対しては、中国の支援を必要としたから、自立するというわけにはゆかなかった。  分裂国家という矛盾の上に、東西対決の最先端にあり続けたことが、この国の運命を強く決定づけている。

 キューバは、アメリカの鼻先で社会主義革命を起こしたから、当然アメリカとは激しく対立した。その上ソビエトがミサイル基地を設置したから、アメリカとは危機一髪の状態までいった。ソビエトはすぐにミサイルを撤去したが、以来、アメリカによる経済封鎖が続いている。フロリダから亡命キューバ人による反攻も企てられたが、力とはならず、村八分状態が続くこととなった。そのさなかにソビエトが崩壊し、いっさいの援助がなくなった。嫌でも自立することとなった。
 ここは東西対立の最終戦を戦いながらも、周縁におかれていたのである。

 北朝鮮には抗日戦を戦い抜いた金日成がいて、キューバにはバチスタ政権を倒したカストロがいた。金日成は白頭山の抗日ゲリラ以来、一貫して軍人であったが、カストロはソ連崩壊の翌年には、リオの地球サミットを受けて憲法を改正し自然保護条項を書き加えるというエコロジストになつていた。
 また、北朝鮮は、ソビエト、中国と陸続きであり国際共産主義運動で結ばれていたのに対して、キューバはソビエトからもアメリカからも断絶された島国であり、ソフト、ハードともに自立せざるを得なかった。反米を軸としながら自給自足が国家路線となった。

 キューバではこうした事情から、餓死者を出さないために農業に力が注がれたが、肥料も自前の有機農業を採用した。土づくりのために微生物やみみずの研究が動員された。石油不足で多くの自動車やトラクターが動かず、古い馬車や農耕牛も動員された。農村でも電力不足は太陽電池で補った。200万都市ハバナでは空き地はすべて耕され、都市農業により野菜の自給を実現した。

 ここには、ハイテクとローテクが共存した見慣れぬ生活の様態が見られる。
 共存の点だけからいえば、北朝鮮にもミサイルから伝統的な農業までハイテクもローテクも存在する。しかし、ハイテクは国家目的のために、ローテクは人民の手にと分離されている。キューバではこれとは違っていて、両者は人民の生活の水準で結合されていて、むしろ文化的な次元では融合されているとさえいえる。

 この違いのキーワードは、「自立」にあった。つまり、北朝鮮は大国に依存して、近代文明の範疇に属する「後れ」の普通の姿をしているが、キューバは大国とは無関係に、「後れ」が問題とならぬ近代文明の埒外に一歩踏み出すことになっている。

 ノーベル賞経済学者のアマルティア・センは、飢饉は不平等から起こり、民主主義により市場経済の公正が確保されれば飢饉は防げるという。これは北朝鮮には良く当てはまるけれども、先進資本主義国の自由競争による貧富の二極化の問題は、公正の確保の困難さを示してはいないか。
  「9.11以後の国家と社会」シンポが最近行われた。
 南北の圧倒的な不平等に関して、南北の「社会的な関係の客観性」が生み出す根強い敵対感が二千年前から世界が解決できていない問題の核心だ(見田宗介)と言う見解と、アメリカなしに第三世界はなく、両者は「収奪」と言う前に相互依存の一つのシステムとなっている(橋爪大三郎)と言う見解が表明されている(2002.11.12 朝日新聞夕刊)。

 後者は不平等性を認めた上で、生じてくる問題のリアルな解決を求めるもので、民主主義による公正な市場経済というセンの立場と通底する。  しかし、これで前者のいう根強い敵対感が解消できるだろうか。

 キューバの社会主義はこの問題にも答えを出そうとしているように見える。

 1995年にカストロが来日した際にこう語っている。私の記憶では、「キューバは先進国のように大型のジェット旅客機や……などを持とうとは思わない。国民はひとしく教育と医療と住宅を保証されるべき……云々」というものであった。
 地球環境を意識したエコロジズムの立場からの持続可能な文化は、資本主義の止めどない競争とは相容れない。解放への欲望は物質文明へと向かったが、出口は無かった。環境倫理とでもいう抑制因子がどうしても必要である。ここに語られているのはそうしたことのスケッチではないか。

 辻井 喬(堤 清二)は、「現在の工業技術、科学技術が可能にした利便性を抜け出し、不便ではあっても、病気や飢えのおそれと戦いつつも、新しい生活様式のなかへ歩み入ることが、現代人にとって可能なのだろうか。万が一可能だとしたら、それはどのような精神的価値基準に励まされてのことなのか。」(ユートピアの消滅 集英社新書)という。
 彼はまたこうもいう。「民主主義はユートピア思想の解毒剤であり、ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた佛である」(同書)。

 抑制因子となるのは環境倫理という精神的価値基準であり、これは利便と快楽の近代文明に対抗するユートピア思想である。そして、橋爪のいう相互依存のシステムを転換するものであり、見田のいう根強い敵対感を揚棄するものでもある。

 だが、対抗的とされたユートピア思想の社会主義は、ソビエトも、土法により自力更生を唱えた毛沢東の中国も、そしてその後に続いた北朝鮮も近代文明の道を歩んだから、利便と快楽を志向する近代文明というシステムを転換するものとはなり得なかった。

 現状では、キューバのエコロジカルな社会主義が、辻井の万が一という、脱近代を目指す精神的な価値基準の唯一のモデルなのではないか。

 それでも、一つの問題は残る。
 アメリカの経済封鎖が解除された場合、再び利便と快楽の近代文明に戻ることはないのか。島国というハードウェアがそれを維持してくれるのだろうか。
 唯一の保証として考えられるは、島という条件ではなく、ユートピア思想乃至は精神的価値基準が、国民の合意として揺るがないことである。人民がエコロジカルな社会主義に利便と快楽に替わるユートピアを実感できることである。

 実は、こうした「理念」の力が試されている事例は身近に存在している。他でもない日本国憲法の平和主義である。ここでは情況の変化の中で改憲の動きがしきりとなっている。
 やはり、情況の変化は人間を変えてしまうのだろうか。

 キューバの近くにコスタリカという国(コスタリカ共和国)がある。面積5万1千平方キロ、人口310万人の小国であるが、日本と同じような平和憲法をもっている。日本と違って軍隊はない。そしてこの国には、再軍備へ動く気配はない。

 このことは、もしかすると、世界の周縁では外界からの影響が弱く、世界の中心とは異質の文化が根付くことができるのではなかろうか、と言う希望を抱かせる。

 もし、そうだとすれば、戦争と環境破壊の中で近代文明が崩壊しても、世界の周縁には平和でエコロジカルな人類の文化が生き延びる可能性があるといえるのだが。

                                                       (2002.11.16)