ローマ法の原理
原田慶吉
前 書
ローマは一日にして成らず、ローマ法も建国より儒帝に至る千数百年の間には大きな発展がある。私はさきにこの発展を叙して次の如く云つた(拙著、上一—二頁)。——「紀元前七五三年のローマの建国より、紀元後五六五年の儒帝の死亡まで、千数百年にわたる間に、ローマの社会に決定的変更を与え、その面目を一新せしめた危機が二度ある。一はカルターゴーに対する覇権の確立【第二回ポエニ戦争終了前二〇二年】である。これにより貴族・平民対立するも、未だ劣等人種を包含せず、習俗は素朴健全、思想宗教未だ外来のものに染まず古来の伝統を維持し、イタリアの狭地に蟄居していた農業国にして、政治的には王政(前七五三—五〇九年)を廃止して、元老院(senatus)と政務官(magistratus)と国民が相掣肘しつつ調和を保つていた共和政前期は、一躍して人種は黒白を交え、階級は門閥大地主の富貴(nobilitas)階級と新興商業階級たる騎士(equites)階級と無産の民衆(populares)階級の三階級の対立となり、宗教思想界はギリシャその他東部地方の影響を受けること極端な、地中海沿岸地帯に君臨する一大商業帝国となり、社会の根柢は一変し、政治組織も古の調和破れ、まず元老院中心時代を形成したが、それも共和政末期の社会的混乱を征服するに由なく、軍隊と無産者を背景とした軍人の勢力進出し、Sylla, Caesarの先駆を経て、Augustusに至つては共和政の形式維持に腐心しつつも、君主制の実を挙げるに至つた。他はSeverus Alexander(二二二—二三五年)の没後に端を発する帝国の分解である。新移住民は北方に迫り、再興ペシャ亦その虚を衝き、帝国を東西二部にわかつたDiocletianus(二八四—三〇五年)、都をコンスタンティノポリスにうつしたConstantinus(三二四—三三七年)の対策も効なく、Theodosius(三七九—三九五年)の代にはローマは完全に分裂し、その西ローマも四七六年に滅ぼされるに至つた。政治的には皇帝の絶対専制政治確立し、経済界は極度に衰微の途をたどり、宗教界ではコンスタンティーヌス帝以来はキリスト教が国教となり、思想界ではアリストテレースの哲学の侵入特に目醒しいものありと解せられる。この二危機を境として、ローマ法制史は第一期(前七五三—二〇二年)、第二期(前二〇二—後二八四年)、第三期(二八四—五六五年)の三期にわかたれる」と。本書はそのうち、ローマ法律文化の完成した第二期を主たる対象として、法思想法原理的なものを究明することを目的とする。固より、以前の第一期に触れることもあれば、第三期ビザンチン期を対象とすることもあるが、それは附属的取扱に過ぎない。
第一章 法への誇、法への関心
一 法への誇 各民族に課せられた世界史的使命が達成せられたとき、その影響がいかに大きく、いかに生命の長いものであることか。メシアの予言は今なお我等の信仰の対象であり、ギリシャの精神は今なお我等の科学芸術に滲透し、ローマの文化的遺産は今なお我等の法生活を支配する。そうした世界史的使命に生きる民族には、又その使命に対する自覚と誇があつた。キケローは云う、「誰でも異論があるなら、それでよい。自分は自分が感ずるところを云おう。実際たつた一冊の十二表法の小冊は、もし法の泉と源を見るとき、権威の重さに於ても、利用の豊さに於ても、あらゆる哲学者達の文庫を凌駕しているように自分には思われる。‥‥更に諸君は法を識ることからして、我々の祖先が〔法の〕聡明さに於て、いかに他の国民に秀いでていたかは、もし彼等の中、リクールグスや、ドラコーや、ソローンの法律と我々の法律とを比較しようものなら、極めて容易に了解できると云う喜びと満足とを感ずるであろう。けだし、我々の市民法を除いて、他のすべての市民法がどんなに基礎づけがなくて、かつほとんど嗤うべきものであるかは、信ぜられぬほどだからである。このことについては、自分が我々たちの聡明さを、他の人間、特にギリシャ人に優先せしめるときには、日常の話の中でいつも沢山しゃべつている。スカエウォラ君、これ等の理由からして自分は完全な弁説家になろうと思う者には、市民法の知識が必要だと云つたのだ(1)」と。又別の機会にも云う、「国家に至つては、我々の祖先は、制度にせよ、法律にせよ、確かに〔ギリシャよりは〕遥かによいものを以て、これを設立したのである(2)」と。ローマの世界支配はまず戦争によつた。軍事に於ても比類なき国民であつたことは、キケロー又これを誇る。「軍事については何をか云おう。そこでは我々の祖先は、勇気によつても遥かに強くはなつたが、それにもまして、訓練によつても強くなつた(3)」と。戦争の後には法が来た。戦争と法とは支配の両輪であり、両翼であつた。「法学者の名声かそれとも軍人の名声かいずれが高き」——これはローマに於ける雄弁術の最も愛好せられた問題であつた(4)。ローマの使命が論ぜられるとき、「武器と法」とは常に合言葉であり(5)、儒帝亦その勅法に於て、これを繰り返している。曰く「国家の最も堅実なる保障は、武力及び法力を以て基礎と為す。国力の安泰は実に繋りて此の両者に在り。多福なる羅馬市民は既往に在りて、此の保障に依り、総ての国民に優勝して、総ての人類を統治することを得たると同じく、将来に於ても亦、神の冥助に依りて永久に既往の如くならんとす。何故となれば、武力、法力の両者は互に相倚り相扶けて、常に旺盛と為り、武力は法を俟ちて鞏固の状態を呈し、法は武力に依りて其の存在を保てばなり(6)」と。又曰く「帝威は独り武器を以て赫々たらしむべきのみならず、又宜く法律を武器とし、以て戦時と平時とを問わず、正々堂々の治化を敷き、而して羅馬皇帝は独り戦場の大勝者たるのみならず、亦公明正大の法律に依りて凶類の非行を制圧し、以て武光の宣揚者と同時に、最も神聖なる法規の伸張者たるべきなり。朕夙に精を励し、遠きを慮り、天佑に依りて、能く両者の目的を達せり。新に朕の統御に帰せる野蛮国民は明に朕の軍労を認知せり。‥‥独り是れのみならず、今や中外の諸国民は皆均しく朕が公布し若くは編成したる法律の統治に服従せり(7)」と。
武器と法に対する確固たる自信は、更に武力と法力による支配を天の命ずる天職とさえ観ぜしめるに至つた。「汝ローマ人よ、心して諸民族を命令権もて支配し、平和の法を課し、降れる者を赦し、驕れる者をうちのめすことを記憶せよ。これ等の術《ワザ》亦汝の持つところならん(8)」——ウェルギリウスはかく叫ぶのである。
(1) Cicero, de oratore 1, 44:…bibliotheca mehercule omnium philosophorum unus mihi videtur XII tabularum libellus, si quis legum fontes et capita viderit, et auctoritatis pondere et utilitatis ubertate superare, …Quantum praestiterint nostri maiores prudentia ceteribus gentibus, tum facillime intelligetis, si cum illorum Lycurgo et Dracone et Solone nostras leges confere volueritis. Incredibile est enim, quam sit omne ius civile praeter hoc nostrum inconditum ac paene ridiculum etc.
(2)(3) Cicero, Tusculanae disputationes 1, 1, 2.
(4) Quintilianus 2, 4, 24: iurisperiti an militaris viri laus maior.
(5) Aurelius Victor, De Caesaribus 41, 17 「このことたる、ローマ人は正に苦難を尽して齎らしたところである。と云うのは、その武器と法律(armis legibus)と寛大なる命令権もて、あたかも新にせられた町の如く、ローマを考えたからである」。Libanios(がテオドシウス大帝に贈るの書)vol. IV S. 7, 1 (ed. Forester)「帝国を我々に結びつけているもののうち、次の二個、即ち武器の力と法の力(τήν τε τῶν ὅπλων ἰσχὺν καὶ τὴν τῶν νομῶν)とが最大のものであると云うことは、誰もが同意するところであると自分は考える」。III S. 477, 141 f. 「けだし、御身は敵をば追い払つて、被支配者をば新たな法のもとに置き給うたからである」。Schulz, S. 80.
(6) Constitutio summae rei pr.(春木一郎訳「学説彙纂プロータ」一一頁)。
(7) Constitutio imperatoriam maiestatem pr. et 1 (末松謙澄訳「ユスチーニアーヌス帝欽定羅馬法学提要」四版四七—八頁)。
(8) Vergilius, Aeneas 6, 852; tu regere imperio populos Romanae memento---haec tibi erunt artes---pacisque (paciqueとあるものあれど、今通説に従い属格を採る)imponere morem, parcere subiectis et depellare superbos.
二 法と裁判への関心 法を誇つた法の国民は、自ら又法に対する関心も強かつた。キケローが少年であつた時代には、十二表法を必唱歌(carmen necessarium)として暗誦し、「もしも法廷に召喚するときは」(si in ius vocat)【十二表法第一表冒頭の法廷召喚に関する規定】の規定その他の規定を小さい時から習つたものであると自ら云つている(1)。ローマの初等教育は読、書、算数等であつたが、十二表法の暗誦は読み方と関連して、行われた如く思われる(2)。而かも初等教育後に特殊教育があり、それが済むのは十四歳乃至十七歳であつたから(3)、余程小さい子供——キケローは「少年」(pueri)、「小さい子供」(parvi)と云つている——の時から為されたものであるらしい。キケローは家庭教育でなくて、学校教育——それはローマの建国時代からあつたようである(4)——を受けたと云われるから(5)、小学校の教課の中に、とにかく十二表法があつたわけになる。家庭教育でも明らかに法律教育が行われた。プルータルクスによれば、大カトーは「自ら初等教師(6)(γραμματιστής)となり、自ら法律教師(νομοδιδ'κτης)となり、自ら体操教師となり、槍を投げ、鎧を着して戦い、馬に打乗るのみならず、拳闘で拳もて打ち、寒暑に堪え、河流の渦流荒波を押し切つて泳ぐことを子供に教えていた(7)」。プラウトゥスの幽霊物語(Mostellaria)にも、人間を建物と比較した論の中で、「まず親は子供の建築師である。彼等は子供の基礎工事をし、高く積み上げ、いそいそと堅固にしあげ、国民にとつても、自分にとつても、実用によし、美しさによい者たらしめるためには、ほとんど材料を惜まず、費用がいくらかかろうと一向に勘定にいれない。彼等は磨きをかけて、文学、法、法律を教え(docent literas, iura leges)、他の子供達が自分の子供に似ることを望んでくるように、一生懸命費用と労力をかけて努力する。このようにしてできあがつた子供を軍国に送るときには云々(8)」と云つた放蕩息子の殊勝な言葉が見えている。文中軍国に送るとは、少年の教育が終つて、大人服(toga virilis)をつけた後のことである。ローマ人はこのようにして、その効果はとにかく、法律教育が少年初等教育の必須科目とせられるほど、法律に対して深い関心を寄せていたが、訴訟も亦ローマ一般人の極めて関心の深い対象であつた。プルータルクスは小カトーについて、子供の裁判ごつこの遊びにまつわる挿話を伝えている。曰く「又一人の親類が誕生日に御馳走のため他の子供を招び、カトー一家をも招んだとき、暇があつたので、家の一隅で、彼等は自分達だけで、年少者も年長者も入り交つて、遊びをした。遊びは裁判と訴追と有責者の逮捕であつた。有責者の子供の一人で、見る目も麗しい一人が、年長の子供にある部屋まで引きつれられて閉じ込められたので、カトーを呼んだ。事態を知つたカトーは、即座に戸の所に急ぎ赴き、前にいて邪魔をする者共を押しのけて、その子供を救い出し、ぷんぷん怒りながら、家に帰つてしまつた。そして他の子供達も彼について行つた(9)」と。子供は親の影響を受けなければ、こんな遊びはできない。親達の熱心な関心が何時しか子供心に映じて、こんな裁判ごつこにまでなつているのである。事の良否は別として、ローマ市民はこれほどにまで裁判に関心を示していたのである。
(1) Cicero, de legibus 2, 23, 59: discebamus enim pueri duodecim ut carmen necessarium; quas iam nemo discit (なぜなれば、我々が少年のときには、十二表法を必唱歌として暗誦したものだから。これを暗誦することは今は誰もやらないが); 2, 4, 9: a parvis enim, Quinte, didicimus ``si in ius vocat'' atque eius modi leges alias nominare (小さいときから、「もしも法廷へ召喚するならば」の規定やこの種の他の規定を名指すことを我々は習つたのだから、クゥイントゥス)。
(2) Marquardt S. 94.
(3) Fowler, Social life at Rome(Home Reading Series)1909 p. 191; Marquardt S. 131 ff.
(4) Marquardt S. 90. 伝説によれば、ロームルスもレムスもウィルギニアも学校に通つている。
(5) Fowler p. 182.
(6) ラテン語ではlitteratorと云う。後の言葉を教えるgrammaticusとは異る。Marquardt S. 90.
(7) Plutarchus, Cato maior 20, 7.
(8) Plautus, Mostellaria 126.
(9) Plutarchus, Cato minor 2, 2.
三 本来民事訴訟の問題でない争訟の民事訴訟による解決 法への関心も、法への信頼も強かつたところでは、又本来民事訴訟の問題ではない争訟をも、通常の民事訴訟の形式で解決すると云う特有の現象が現われて来る(1)。彼等は予備問答契約(sponsio praeiudicialis)をその目的に使用した。これは訴訟上の賭であつて、事実の真偽、有無、正否を審判人に解決して貰うために、敗訴した場合に一定額の賭——それは形式的にはノミナルな場合が多い——を支払うことを、相互に問答契約を以て約し、賭金の請求を目的として、通常の訴訟手続をなすのである。例えば、凱旋式を受けるに値する功績は指揮官のいずれに属するのかを決定するため(2)、善良な人間(vir bonus)であるかどうかと云うことを決するため(3)、娼婦に巨大な金をつぎこんだり、親父からの財産を恥ずべき行為(flagitium)に浪費したりしていると云う風評を否認するため(4)、若者と淫蕩行為(stuprum)はしたが、この若者は公然の男娼【固より女装はしていない】であると云うことを主張するため(5)、某なる人間が或ることを主張していることを認めるか否かを確認させるため(6)等種々な場合に、訴訟上審判人に確定を仰いでいたのである。
(1) Jhering II S. 86--7(五号一五三頁); Keller-Wach, Der römische Civilprozess 1883 S. 127.
(2) Valerius Maximus 2, 8, 2; Livius 39, 43.
(3) Cicero, de officiis 3, 19, 77.
(4) Gellius 6, 11.
(5) Valerius Maximus 6, 1, 10.
(6) Cicero, in Verrem II, 3, 57, 132.
第二章 法学者への尊敬、法学者の栄誉
一 法学者の人気、法学者への尊敬 世界に対して誇るに足る法律文化を育成したのは法学者であつた。従つて、法に対する誇のあるところ、又法学者に対する尊敬もあつた。イェーリングは云う、「実際ローマに於けるほど以上に、法学者が大きな人気と強い影響と高い尊敬を享有したことは外になかつた(1)」と。「法律と法が栄光赫々たる士の権威(clarissimorum hominum auctoritas)によつて被われている(2)」ことは、ローマ人の切なる願であり、「古人の設けたものには、幾多の輝かしいものがあつたが、特に最上の出来ばえの市民法を識り、これを解釈することは、常に最高の栄誉であつたと云うことも、そうであつた(3)」。誠に法学者こそは国の第一人者(princeps)であつた(4)。キケローは云う、「更にこの市民法の知識がそれ自体、この知識をリードする者に、どんなに沢山の栄誉と信用と威厳とを齎らすものであることを、何人が知らぬことがあろうか。だから、ギリシャ人のところでは、僅かばかりの報酬で駆りたてられている最も低級な人間——彼等のもとで実務家《プラグマテイコイ》(πραγματικοί)と呼ばれている者——が、訴訟で弁説家のために手下となつているのに反し、我々の国家では反対に、〔そのような法律の仕事をするのは〕、誰でも最も尊敬すべく、又最も有名な人間で、例えばこの市民法の知識故に、最高の詩人【エンニウスを指す】からして、『特に完璧の士、賢人アエリウス・セックストゥス(5)』と呼ばれた者や、その外叡智を以て己に威厳を獲得した多数の士は、その叡智自体で人気を博するよりは、法を解答する権威によつて人気を博するようになることに成功したのである。一体、老後を祝い、老後を飾るための隠退所として、法の解釈以上にふさわしいものがあるであろうか。実際自分は、既に久しく若いときから、この逃避所【即法の解釈】を自身に獲得したが、それは訴訟事件に役立つと云う裁判上の利用のためばかりでなく、自分に力が欠け初めたときに——もう既に大概ねその時が近づいてきたが——、自分の家をその淋しさから護るための装いと飾りのためでもある。けだし、彼のピーティウス・アポルローが、己は自己の国民及び国王から意見を期待せられている者でなくても、自己のあらゆる同僚市民から期待せられている人間であるとエンニウスのもとで云つていること——『彼等自己の物事に定かならず、予は予の意見の力もて、彼等を不確かより確かなるもの、力強きものとして放つ。彼等不安の物事を取り行わざらんがためなり』——と同一のことを、栄職と国家の務めを果たし上げた老人が、自己の法についても云うことができることほど、輝しいものは外にあろうか。けだし、疑もなく、法学者の家は全国家の神託〔所〕であるから。このことの証拠は、クィントゥス・ムーキウスの戸と玄関である。彼の健康が極めて弱々しくなり、既に年齢も尽きたにもかかわらず、毎日彼の玄関は市民の黒山と最高人の輝きを以て訪問を受けていたのである(6)」と。ホラーティウスは歌う、「鶏がこけこと鳴くなり、意見を問いに来る者が戸をたたくときには、法と法律の先生は、お百姓さんはいいなーと云う(7)」と。セネカは記す、「誰か弁護人の門番が這入つて来る者を押しのけたので、これに大いに憤慨し云々(8)」と。事は弁護人に関してであるが、法学者とて同一であつたであろう(9)。老衰し、健康が優れなくても、なお断りきれず、暁未ださめやらぬうちにたたき起され、門番が来る者来る者を押しのけるのに一苦労している共和政末帝政初の法学者の面影、正に躍如たるものがある。キケローも云つた、法学者の家は「全国家の神託所」(oraculum totius civitatis)であると。民衆が行くのに遠ければ、国家で適当な場所に官宅を設け、そこに住わせて、民衆の便宜に供しさえしたこともあつた。最善者と称せられたScipio Nasicaに対する栄誉であつた(10)。法に秀でた学者は、世の師表に立つ者とせられて、法律以外の実生活問題にまで意見を徴せられて活動した。共和政のManiliusに関し、キケローは次の如く記している。「我々も亦マーニーリウスがフォールムを横ぎつて逍遥しているのを見た。それはそのような行動をしている人間が、すべての市民に対して、自分は意見はいくらでも持つていて、これを授けてやれるしるしのようでもあつた。そのような人間のもとへ、そのように逍遥しているときでも、家にあつて椅子に坐つているときでも、市民法についてだけではなく、娘を嫁がせ、土地を買い、土地を耕すことについて、要するにあらゆる義務なり行為なりについて、話をするために行つたものであつた(11)」と。娘の結婚相談、土地売買の相談【法律問題ではない】、土地耕作の相談——共和政法学者はあたかも、家事一切について相談を受けたカトリックの聴罪師(Beichtvater)にも似たものがあつたとイェーリングは云つている(12)。
(1) Jhering I S. 330.
(2) Cicero, de oratore 1, 59, 253.
(3)(4) Cicero, de officiis 1, 19, 65.
(5) Sextus Aelius Paetus Catus.「三部書」(tripertita)の作者。拙著、上一四頁。
(6) Cicero, de oratore 1, 45, 198.
(7) Horatius, Satira 1, 10.
(8) Seneca, de ira 3, 37. キケローのアッティクスに対する書簡によれば、彼の家はフォルミニ住人の訪問でまるで法廷のようで、田舎の住いではなく、訪問者が去つてくつろげるのは、やつと夜の十時だと書送つている。Cicero, ad Atticum 2, 14. Jhering II S. 415 Anm. 577a.
(9) Jhering II S. 415もセネカの叙述を法学者に関することとして援用している。
(10) D. 1, 2, 2, 37 Pomponius.
(11) Cicero, de oratore 3, 33, 133.
(12) Jhering II S. 414.
二 人気と尊敬の原因(無報酬の活動) このように法学者が人気を博し、尊敬を受けたことに関しては、その活動が原則として無報酬で行われたと云うことと大いに関係がある(1)。法学者の報酬は共和政時代には、確かに禁止されていたに違いない(2)。帝政に入つても、サビーニアーニー学派のSabinusが、「資産が豊富でなかつたので、大概ねその聴講者からの扶助に頼つた(3)」と記されて、金銭的援助を受けたことが特別の異例の如く記されていることは、通常一般には無報酬で活動したことを想像せしめるものである。古典法学者も、「法律の知識は極めて神聖であるが、金銭を以て評価せられるべきものでも、又汚されるべきもの(deshonestanda)ではない(4)」として、裁判所に訴えることは認めない。ただ任意に予め渡され謝礼(honor)を受けることは禁止はしなかつた。然しその言の中には、明らかに金銭的報酬に対する鋭い反感——金銭を以て汚さるべきものではない——が読み取られる。これが又弁護人とは大いに異るところであつた。ローマ法学者は実生活のさ中にあつて、これと取り組む実際家ではあるが、実際の訴訟事件の当事者のいずれかにくみして、争うことは原則としてはしない(5)。法学者は、専ら法律に関係を持つ問題の限度に於て、種々の諮問に答えるが、審判人のもとに於ける手続で問題となる事実の証明に関する問題には通常触れない。従つて、Aquilius Gallusも云つた如く、そんな事實の挙証問題は、「全然我々(法学者)の関するところではなく、キケローに関する(6)」問題である。けだし、審判人のもとに於ける手続で、事実の有無について、実際の弁護に当るのが、弁護人の一番の仕事であつたからである(7)。彼等は弁論術にかけては磨きをかけるが、法の知識は持つていないと云うのが普通である。法の知識はあつてもそれは弁論術の添物である(8)。キケローやクィーンティリアーヌスがいかに法の必要を説き(9)、自ら法学者を以て任じていても、所詮は雄弁家であつて、法学者の部類に数うべき人ではない。弁護人は当事者の代弁者である。従つて、弁護人が訴訟当事者と一体となつて争わねばならぬ以上、時には嘘も云わねばならず、事実も曲げねばならず、決して良心だけでは行動はできない。あれほど法と法学者の権威を説いたキケローも、ムーレーナ弁護論では、「第一そのようなうすつぺらい科学の中にどんな威厳があり得るのか。けだし対象はちつぽけだし、ほとんど言葉の個々の文字や句読点に捕われている。次にたとい古人のもとでは、その研究の中には、称讃に値するものが何かはあつたとしても、君達の秘密〔学〕が公表せられてからは(10)、すべてが蔑視せられ、投げ捨てられてしまつた」とか、「極めて多数のものが、法律によつてしつくりと定められていたのに、法学者の〔小〕賢しさで、その多くのものが堕落せしめられ、いためつけられてしまつた」とか、「要するに全市民法に於て、衡平を捨てて、言葉自体に捕われていた」とか、「すべてが偽りごとと作りごとから成り立つその科学の中には、執政官的威厳はなかつた(11)」とかの罵言を弄して、法学と法学者をこき下しているが、彼の弁護依頼人のためにする一種の作戦、腹にもないよしなしごと、一般聴衆に対する茶番劇であつたことは、彼自らが、「自分も君がムーレーナを訴追し、自身が弁護したとき、同じ事柄について云つたような戯言は、もう君に対しては云わないよ。あの時は、無智な人間のところで云つたことなんだ。民衆に何かはやらねばならなかつたんだ。今はもつともらしくやらねばならない(12)」と告白している通りである。殊に金銭的な報酬が結びつくと、更に一層弊害を伴う。弁護人の報酬は帝政初まで禁止せられていたが、実際は容易に行われず、遂に一万セーステルティウスの限度まで公然と認められるようになつていた(13)。そこでルキアーヌスも、弁護人の職は、詐欺、虚言、厚顔、叫喚、衝撃、その他数えきれない悪業と切り離せないとまでけなしている(14)。然るに、法学者はもつと純粋に真理に奉仕するいずれにも味方しない公平な第三者であつた。その公平な地位を保障するのが無償の奉仕であつた。
(1) イェーリングも、法学者の活動が無報酬で行われたことが、ローマ法を発展せしめた極めて大きな因子であつたと考える。Jhering II S. 418 ff.
(2) 弁護人にすら禁止せられていたのであるから、まして法学者も然りと云わねばならない。
(3) D. 1, 2, 2, 50 Pomponius.
(4) D. 50, 13, 1, 5 Ulpianus.
(5) 尤も当初弁護人の職をなし、後法学者に転向した者はある。共和政のServius, Tubero (D. 1, 2, 2, 43 et 46 Pomponius)帝政のPaulus(D. 32, 78, 6 Paulus)の如し。なおAristoについて、Kübler S. 265参照。
(6) Cicero, Topica 12, 51 : Nihil hoc ad nos, ad Ciceronem. なおBoetiusの本個所に対する註釈「法学者は事実の性質(qualitas)については解答するが、その事実の真実(veritas)についてまでは解答はしない」参照。
(7) Wenger S. 185.
(8) Cicero, de oratore 1, 56, 237 「小ぽけなことしか知らぬのに大きなことを云つたり、市民法では最も重大な問題を知りもせず、全然学んだこともないのに、これを訴訟に於て取り扱うことを辞せない弁護人の鉄面皮に、君があつけにとられたならば云々」、Tacitus, dialogus 32 「法律も知らねば、元老院議決も保持せず、さては国の法もあざ笑い云々」。昔の弁護人が法律の知識を持つていたとタキトゥスが云つていても、それは「文法にも、音楽にも、幾何にも通じていた」と云うのと同じ程度に於てである(dialogus 31)。
(9) Cicero, de oratore 1, 44, 197(二頁); Quintilianus 12, 3.
(10) Cn. Flaviusが法律訴訟を編纂した書と法廷開廷日を記した暦を周知せしめた挿話を指す。八四頁。
(11) Cicero, pro Murena 9 ss.
(12) Cicero, de finibus bonorum et malorum 4, 27, 74.
(13) 五六頁。
(14) Lucianus, piscator 29.
諮問に対して意見を述べる外、法律行為に助力する(cavere)ことも、共和政法学者の重要な仕事の一であつたが、法の規定を充分にこなすことは、到底素人にはできるところではない。一例を遺言に採ろう。既に遺言自身が絶対的要式行為である。その中の処分行為についても、相続人の指定にも、廃除にも、遺贈にも、奴隷の解放にも、それぞれの法定文言があり、遺贈の文言いかんによつて効果は異るし、数人の相続人や受遺者を結合させるにも、文言いかんによつて結合の仕方は異るし、相続人の指定の前部では他の遺言処分はしてはならないし、財産処分にも、奴隷の解放にも限度があり、煩雑な問題が含まれている(1)。従つて、もしも専門の法学者の助力なくして、完全な遺言処分ができたら、それは特筆に値することであり(2)、法学者の援助なしに遺言を作成したびくびく者は、法学者によつて失効せしめられることを恐れて、往々「悪意及び法学者は遠慮せよ」(dolus malus abesto et iuris consultus)と碑文に記入している位である(3)。問題は然しながら、遺言には限らない。法律が専門化し複雑化するときには、法学者の助力は常に必要である。従つて、法学者は常に行為に関与し、法律行為の締結に瑕疵なきよう配慮した(4)。時には軍に従つて、陣中の法律顧問となつた者さえある(5)。ローマに於て兵士に遺言の方式を免除し、内容的にも種々の特権を与え、又普通一般と異り、法律の不知を恕せざるを得なかつたのは(6)、かかる特別の法律顧問の恩恵は、普通一般の兵士には及ばなかつたからに外ならない。かくの如く、あらゆる法律行為に於て、云わば公有物(res communis)たる法学者(7)の無報酬の助力を仰ぐことができたとすれば、一般民衆の感謝を得ることは余りにも必然であつた。「一般私人の行為から集められた感謝(8)」とは、実はかかる感謝に外ならなかつたのである。
(1) 拙著、上五三頁、下一一九、一二二、一二六、一三九、一四五、一四七頁。
(2) D. 31, 88, 17 Scaevola「予ルーキウス・ティティウス、余りにも多く、かつ憐れむべきほどの注意を駆りたてるよりは、予の精神の推理力を追いたて、本遺言をなんら法に通ずる者〔の助〕なくして作成す云々」、CIL. X 4919(=Dessau 7750)「二十五年間、法学者〔の助〕なくして遺言を作成したる某」。Kübler S. 137.
(3) CIL. VI 12133, 10524, 8862, 8861. Friedländer I S. 336 Anm. 2.
(4) キケロー(pro Murena 11)が「あらゆる事柄に〔法学者〕自身が立ち会うよう記号を組成した」(notas composuerunt, ut omnibus in rebus ipsi interessent)と云つたのは、訴訟上の方式に関係してであるが、その他の場合にも該当する。Jhering II S. 410 Anm. 565.
(5) Caesarに扈従してガリアに行つたTrebatius Testa. 二〇三頁参照。
(6) 境野剛・原田慶吉「羅馬法に於ける兵士の私法的地位」法協五九巻一号八五頁以下、九六頁。
(7) Jhering II S. 419.
(8) Cicero, de oratore 3, 33, 135: ex privatorum negotiis collecta gratia.
共和政時代には、法学者の活動が無報酬でなければならず、帝政に入つても、無償が実際原則であつたとすれば、彼等の生活はいかにして保障せられたか。第一は、その生来の門地である。彼等は裕福な元老院議員階級か騎士階級かに属することが事実上予定せられていた。貴族にして高貴なる者(patricius et nobilis)が前提条件である(1)。Sabinusが、当初はいずれの階級にも属せず、漸く五十歳にして騎士階級に列せられたような例(2)は稀であつた。これ亦弁護人が第三階級者からも人材を出したのと大いに異るところである(3)。第二に金銭的償いは将来高位高官に就けば、たとい共和政の官吏が名誉官であつても、実際には自ら別に途はつく。帝政のIulianusの如きは、「その非凡なる学説の故に」ハドリアーヌス皇帝より報酬を倍額にして貰つた(4)。高位高官を目ざす若い法律修得者は、まず政務官の諮問会(consilium)に入り、そこで政務官の法律的事務を助けるのが通常の経路であつたが、帝政時代には、彼等には国家から報酬が与えられていた(5)。その他には、弁護人が法律に通じないため、これに雇われて、法律的知識を与え、弁護人とともに訴訟に参加するプラグマティコイ(6)や、証書作成等の実務にたずさわる者(7)もあり、明らかに報酬を受けていたが、身分も低く、ローマ人が云う法学者(iuris consultus, iuris peritus, iuris professor)とはおよそ別個の存在である。
(1) Serviusについて、D. 1, 2, 2, 43 Pomponius.
(2) D. 1, 2, 2, 50 Pomponius.
(3) Friedländer I S. 329.
(4) CIL. VIII S. 24094(=Dessau 8973)「彼(ユーリアーヌス)に対してのみ、神聖ハドリアーヌスは非凡なる学説の故に、財務官職の俸給を倍加せり」Kübler S. 266--7.
(5) Friedländer I S. 338.
(6) Friedländer I S. 336; Wenger S. 84 Anm. 26.
(7) Friedländer I S. 337.
三 法学者と政治 内面的な栄誉と威厳に対応して、外面的のそれも劣るものではない。「名誉こそ芸術を培い、万人は栄誉により精進の念に燃えたたせられる。人のもとで容れられないものは、常に休止してしまう(1)」。治平齎天下の芸術、「善と公平の芸術」たる法は、栄誉と名声を齎らす点に於ては、普通の芸術の比ではない。「政治人」たるローマ人にとつては、政治家となり、一国の最高権を握つて、天下国家を左右する、男子の本懐これに過ぎるものはなく、これに優る栄誉はないが(2)、その政治家たることには、法律の素養が絶対の要件とまではいかなくても、少くともそれは有力な政治的立身出世の道であつた。兵法を識り、勇名を馳することも、固より栄誉ある地位に就く所以でもあるが、それも「今日では有力ではなくなつた」、法の知識や雄弁術こそ最も名をなす所以であるとキケローは説く(3)。彼によれば、「法に於て注意し(cavere)、意見によつて援助し、この種の知識を以てでき得る限り多数の者に役立つことは、勢力を増大するにも、信用を博するにも、絶大な関係があ(4)」つたのである。ローマ法学者の仕事中、法律問題の諮問に対して解答を与えることは、さきにも記した如く、共和政でも帝政でも、最も重大な仕事とされているが、某C. Figulusは、「諸君は皆自分に意見を問う(consulere)ことは知つているが、自分を執政官(consul)にすることは知らない(5)」と云つた。法律の知識と立身出世との関聯を、これほど良く表現した戯言はない。「ユースティーニアーヌスが名誉を与える」(Iustinianus dat gloriam)、法科出が出世するとは、ローマの当初からの真理であつた。実際又ローマの錚々たる法学者は、いずれも最高級の政治家であつた。訴訟の方式公開事件で有名なAppius Claudius Caecus、初めて法律教育を施したTiberius Coruncanius、「三部書」(tripertita)で名を挙げたSextus Aelius Paetus Catus、「市民法の設立者」として聞えるManiliusとPublius Mucius Scaevola、共和政の最後を飾る二人の法学者Quintus Mucius ScaevolaとServius Sulpicius Rufusはいずれも共和政の最高政務官たる執政官に就任した(6)。帝政に入つては、政治よりは内治や司法が有名を馳する所以となつて、専門の法律家の必要は益々増えて来た。特にハドリアーヌスの頃からは、帝室側近の官としては、法学者は必須の存在となつた。有名な法学者の経歴は、法学教師並びに解答者として登場し、漸次官に歴任して、皇帝の諮問員となると云う経路を採るのが通常となつた(7)。かくして法学者は優秀な官吏としても活動した。ハドリアーヌス帝の代永久告示録(Edictum Perpetuum)を編纂したIulianusの官歴を記した碑文には、何と長々しい肩書がついていることか(8)。曰く「訴訟裁決の十人官(decemvir litibus iudicandis)、ハドリアーヌス皇帝の会計官(quaestor imp. Hadriani)、護民官(tribunus plebis)、サートルヌス財庫、軍財庫長官(praefectus aerarii Saturni item militaris)、執政官(consul)、神祇官(pontifex)、聖衙掛(curator aedium sacrarum)、下ゲルマーニア知事(legatus Germaniae inferioris)、手前ヒスパーニア知事(legatus Hispaniae citerioris)、アーフリカ県前執政官(proconsul provinciae Africae)」と。Severus時代の三羽烏Papinianus、Paulus、Ulpianusはいずれも帝政時代の皇帝側近の最高政務官たる近衛都督(praefectus praetorio)に就任した(9)。その他の法学者も経歴の判明する限り、官歴を経ていない者はほとんどなく(10)、僅かにPomponius、Gaiusの如き二三の例外が、そのような官歴を経なかつた学者かと想像せられるだけで(11)、それも確実なことは判明しない。
(1) Cicero, Tusculanae disputationes 1, 2, 4.
(2) ハインツェはローマ人が「政治人」であり、「役人となることが、そして最後に執政官になることがローマ人の憧憬の的であり目標であ」り、「ひたすら役人となることに依つて多数の人々から仰がれることのみ願つたのである」と説く。祇園寺信彦「古羅馬興隆の因」日伊文化研究一三号一七頁、一九—二〇頁参照。
(3) Cicero, de oratore 3, 33, 136.
(4) Cicero, de officiis 2, 19, 65.
(5) Valerius Maximus 9, 3, 2(前一三三年): omnes consulere scitis, consulem facere nescitis.
(6) 拙著、上一三—五頁。その他P. Sempronius Sophos, P. Aelius Paetus(Sextusの兄弟)、M. Porcius Cato(父)、C. Livius Drusus, Q. Mucius Scaevola(後の同名の法学者と異る)、P. Rutilius Rufus, Q. Aelius Tubero, L. Licinius Crassus, P. Alfenus Valens等が執政官に就任している。Krüger S. 55 ff.
(7) Bruns-Lenel S. 361.
(8) CIL. VIII S. 24094(=Dessau 8973)(一八九九年彼の故郷アーフリカのPupputで発見). Kübler S. 266.
(9) 拙著、上一七頁。
(10) 個々の法学者の官歴については、Krüger S. 154 ff.; Kübler S. 259 ff.; Schulz S. 21 Anm. 54参照。
(11) Kübler S. 268. 春木一郎「ガーイウス羅馬私法講義案写本発見一百年の記念」法協三五巻一号一七八頁。
四 皇帝に対する法学者の権威 権威の高い法学者に対しては、皇帝の威厳を以てするも、いかんとも為し得なかつた。元老院に於て、議員が交替して、アウグストゥス皇帝の寝室の夜番をすることが提議せられたとき、プロクリアーニー学派の祖Labeoは、自分は鼾をかく癖があつて、皇帝の安眠を妨げるおそれがあるから、そのお務めは御免蒙りたいとあつさりその提議を蹴とばしている(1)。ネローの代六五年、ローマの将Corbuloはパルティア国王Tiridatesに対して勝利を収めた。元老院はネローの栄誉を記念するため、種々の企画を立て、その一に、勝利を博した日、勝利の報がローマに到達した日、栄誉づけについて元老院で議事を開いた日等を新に祝日に加えようとしたのに対し、サビーニアーニー学派の宿将で、自己の名に因み一名カスシアーニー学派と呼ばしめたほどのCassiusは、皇帝に対して感謝しようとするなら、一年全部を感謝の日に宛ててもなお足りないであろう、而かも祝日と通常日との区別はなくてはならないのであるとて、この元老院の追従的提議を粉砕し、ネローの面目を丸潰れにしてしまつた(2)。正義の一念に生きる法学者は、死を以てするも皇帝に抗議した。二一三年カラカルラ皇帝は、共同支配者たる弟ゲタを殺して、単独皇帝となり、その殺害に関する元老院への弁明書の作成をPapinianusに命じたが、彼は断乎としてこれを拒絶したため、皇帝は遂に彼を殺したことは、後世にまで語り継がれるローマ法学者の一側面である(3)。
(1) Kübler S. 259.
(2) Kübler S. 263.
(3) 春木一郎「Papinianus」京法四巻七号、穂積陳重「法窓夜話」一頁以下。
第三章 法への信頼、遵法精神
一 法への信頼、法侵犯への反撥 ローマ人が誇つたのは、「他のいかなる国民と雖も、彼等ほど聡明な法律、試験済みの確かな制度を持つてはいない。いかなる国民と雖も、彼等ほど法の認識に於て上達していたものはない」と云うことだけではない。それにもまして、「ローマほど、法が高い尊敬と、無条件の承認と、破り難い実現についての安定観を見出すところは外にないと云う名声が、彼等にとつて尊いものであつた。法に対する道徳的尊敬、ローマ人が法の規定のもとに唯々として服従すること、国民の正義愛、法侵犯に対する国民の嫌悪、ローマに於て法が与える安定感情、法の勝利に対する信頼、一言で云えば、健全な力強い男性的な法感覚、これこそローマ人を誇を以て充たしたものであつた。このような気持が輝しく証明せられると、輿論はこれを高く買つたし、この気特に対して甚だしい違反を犯すと、これに烙印を附してしまつたのである(1)」。法の侵犯がいかなる感情を以て迎えられたかは、古代の挿話乃至事件が端的に物語る(2)。ロームルスは国造りの大業に際し、弟レムスが城壁を飛び越えた故を以てこれを殺した。城壁は神聖そのものであり、後代でも聖護物(res sancta)として、神の特別の保護を受け、これを犯すときは極刑に処せられるのである(3)。ローマ国民の法感情は、レムスの法侵犯の前には、弟殺しの非愛情的行為をも是認するのである。王政はTarquinius Superbus王の、十人官政治はAppius Claudiusの追放によつて、それぞれ廃止せられたが、これは国家権力が法を蹂躙するとき、いかなる結果を招くかの教訓を、為政者に垂れるものであつた。王政の廃止はTarquinius王の末子SextusがLucretiaを犯したことがその直接の動機として掲げられているが、更に王を追つたBrutusが、その二子の王政復辟の企に対し、親の愛情を隠してその子を殺したことが、ひたむきに法の実現に向つて法に奉仕する自己否定の英雄、法の殉教者の行為として、ローマ国民の心に触れるものがあつたのである。十人官政治の廃止は、Appius ClaudiusがVirginiaのあどけない姿に心ひかれ、腹心をして女奴の訴を出さしめて、我が物にしようとして、十二表法が自由身分の訴訟に於ては、訴訟の解決あるまでは常に自由人の取扱をすることにしている規定(4)を破つて、女奴の取扱をしたことが動機となつた。法を蹂躙した者の落ち行く果ての運命を国民に諭す一挿話である。ローマ人は、「法の形式が自分に都合のよいときには、苛酷、残忍かつ粗暴であり、反対に法の形式が自分に都合の悪いときには、自ら進んで法の苛酷さと厳格さに順応しよう」とする。従つて、「奴隷として外国に売られて行く債務者を眺めても、ローマ人は依然として冷淡であり、何人も彼のために心を動かすことはなかつた(5)」。然しながら、事一度法の侵犯となると、輿論は卒然としてわきあがる。紀元前三二六年(又は三一三年)のこと、某Publiliusなる者、父の債務のため、拘束行為(nexum)によつて、L. Papiriusのもとに留置せられることとなつた。Papiriusいとも麗しいこの少年に心ひかれ、己が情慾のままになさんとしたが、少年はこれに応ぜず、ためにこれを鞭つた。少年逃れてフォールムに至り、傷跡条痕の数々を示して国民に訴え、国民立つて暴動となり、ために元老院は執政官に命令して法律を制定せしめ、「何人も、鎖や械の中に縛がれることなく、借金に関しては、債務者の財産が拘束を受くべく、その身体が拘束を受けることがな(6)」くなつた。ネクスムを廃止したPoetelia法は、かくの如く、債権者が債務者に加えた不正に基づく法侵犯を動機として成立したのである。紀元前八九年の法務官A. Sempronius Asellioは、負担せられた利子の取立を無効としようとして、ずつと昔に忘れられていた利息の徴収を禁止した三四二年のGenucia法を援用しようとして、法廷に於て殺害の憂目を見た(7)。合法的な債権者の利息徴収権を剥奪しようとしたとき、降りかかつた運命であつた。「法の形式的自主性、すなわち、何物にも妨げられることなきひたむきの法実現が、もしもどこかで実在したことがあるとすれば、それは、法概念の自主性もまた最高度に発展を遂げた時と所、すなわち、ローマに於ける共和政全盛時代に於てであつた(8)」。固より、共和政末の社会の動乱、内戦のさ中には、法の蹂躙も幾多行われたが、そのようなときは、云わば法を超越した緊急状態である。「骰子は既に投ぜられ」ているのに、ルビコン河を渡るについて元老院の許可を求めているわけには行かなかつたであろう。帝政が実現して、「ローマの平和」が恢復せられたとき、又もとのひたむきの法実現精神が復活する。さきに述べたサビーニアーニー学派のCassiusの時代に、一のセンセイショナルな事件が発生した。当時は奴隷の社会的地位は極めて劣等で、「奴隷を見れば敵と思え」(tot hostes quot servi)の合言葉が行われ、「では奴隷は人間なの。このことがわたしののぞみ、こうするのがわたしの命令、理窟でなくつてわたしの意地よ」(ita servus homo est? hoc volo, sic iubeo, pro ratione voluntas sit)と諷刺作家が歌つた時代であつた(9)。このような時代を反映した立法に、紀元後一〇年のシラニアーヌム元老院議決(senatusconsultum Silanianum)があつて、暗殺せられた主人と同一の軒下にいた奴隷は、全部暗殺の共謀者と推定して、拷問及び集団死刑に処すべき旨を規定していたが、偶々Cassiusの代、警視総監(praefectus urbi)Pedaniusが暗殺せられ、その奴隷四百人に本元老院議決を適用すべきことが問題となり、さすがに輿論はわき、暴動までも起つた。Cassiusはその時元老院に於て、冷酷を責める一派と、何等変更の余地なきことを主張する多数派の間にあつて、敢然適用賛成の演説を行い、多数を制し、皇帝の軍隊の援助を得て、群集の反対を押しきり、遂に死刑を執行させてしまつた(10)。法の形式的自立性をどこまでも盲目的とまで見えるほどに守り抜こうとする精神に於ては、彼は正に共和政全盛時代のローマ人の血を承け継ぐ者であつた。
(1) Jhering I S. 330--1.
(2) Jhering I S. 333, II S. 68.(五号一四四頁).
(3) 拙著、上七三頁。
(4) 六表の六(末松謙澄訳二六一頁)。
(5) 註(2)参照。
(6) Livius 7, 28, 2. Kübler S. 166.
(7) 典拠Kübler S. 167.
(8) Jhering II S. 69.(五号一四四頁).
(9) 拙著、上五〇頁、拙稿、国家四三巻二号一〇九頁、一一五頁。
(10) Tacitus, annales 14, 42 ss.
二 遵法精神 (1)信義 かかる法への信頼、安定感、法のひたむきなる実現への衝動の道徳的内面的裏づけをなすものは遵法精神である。法として一旦定立せられた以上、それはただ法なるが故に遵守すると云う態度で、唯々諾々として自ら進んで法に服する内面的自発精神である。かかる精神は、幼いときから親の躾で涵養せられねばならなかつた(1)。そうした内面的自発性の徳は、信義(fides)の徳(2)と密接に関連する。信義とは「云つたことを行うこと」(fit quod dicitur)であり、約束を守ることである(3)。かかる徳は、国家権力が法を守つて個人の権利を侵害しないことにも、個人が法を守つて他人の権利を侵害しないことにも、個人が契約を守つて違反しないことにも関連する。それは形式論理を以てするも証明することができる。けだし、法律(lex)とは、本来命令権を行使する政務官が提案し、国民がこれを承諾すると云う形をとる政務官と国民との間に締結せられた協約であり、約束であり(4)、約束として政務官と国民を拘束する(5)。従つて遵法は個人間の契約の遵守と同じく、信義の徳に合する。
ローマ人はその信義の徳を誇とし、ローマ人の信義をカルターゴー人、ギリシャ人の信義と対立させる。ローマ人は正に「信義の名を常に口にする人間(6)」(θρυλουντες τὸ τῆς πίστεως ὄνομα)であり、「明らかなる信義によつて神聖にせられた国民(7)」(sacrata gens clara fide)であり、「ローマ人の信義(8)(ἥ τῶν Ρωμαίων πίστις)をほめる者はロクリ人に止まるものではなく、「我々の国【ローマ】に於て(この徳が)、常に旺盛であつたことは、すべての民族の感じたところであつた(9)」。カピトーリウムの丘には、ユーピテルの神殿のすぐ側らに、「信義」の神殿がたつていた(10)。ローマ人にとつては、信義は「人生に於ける最も神聖なもの(11)」(sanctissima in vita)、「人間幸福の最も確かな担保(12)」(certissimum salutis humanae pignus)であつた。
(1) Varro v° patella 「従つて、善良な市民は法律に従い、神を敬わねばならない」。Marquardt S. 87.
(2) この徳及び下記法源について、Schulz S. 151 ff.(Treu).
(3) Cicero, de re publica 4, 7 「fidesはその自分の名称をば、話されたことがなされると云うことから、持つているように自分には思われる」(fidesの語源をfioに求めているのである)。de officiis 1, 7, 23「云つたこと約束したことの遵守と真実」(dictorum conventorumque constantia et veritas)。
(4) Mommsen, Staatsrecht III S. 303 ff. 船田享二、一巻一四一頁。
(5) 尤も法律を国民相互間の合同行為的約束と解することは、ローマ法の観念には合しないようである。Schulz S. 117 Anm. 42.
(6) Diodorus 23, 1.
(7) Silius Italicus, Punica 1, 634.
(8) Diodorus 24, 4, 1.
(9) Valerius Maximus 6, 6, pr.
(10) Cicero, de officiis 3, 39, 104.
(11) Cicero, in Verrem II, 3, 3, 6.
(12) Valerius Maximus 6, 6, pr.
(2)契約法に於ける遵法精神 (a)一般 そうした信義の徳と法律との関係は、何と云つても、契約法に現われる。我々は契約法を通じて、遵法精神一般をうかがうこともできよう。ポリビウスが「他のことは云わないことにして、公金を管掌する者は、ギリシャ人のもとでは、ただ一タレントを信託せられた場合でさえ、十人の会計監査人と同数の捺印とそれに倍する証人があつても、なお信義を守ることができないと(1)」云つたが如く、又川島教授が「彼ら【我が国の農村の人々】にとつては、自分らのせまい協同体の外の人との契約は、決して『契約なるゆゑに』絶対的に守らねばならぬものではない。おほくの場合ただの口約束(目に見える外形の伴はない『観念的約束』)は、彼らにとつては、ほんとうの拘束的な契約ではないのであり、その約束違反は決して厳格に義務違反として意識されてゐないやうである。違反をとがめられなければそれですまし、とがめられればあやまり、相手方がそれでも承知しないといふことは『肚』のないわざとして却つて軽蔑されるであらう。手附けをうけとつたときにだけ、絶対の拘束力ある契約が意識される。手附けのない契約をしておきながら、約束違反をとがめることは、『わけの分らぬ』とされる場合が多い(2)」と記されるが如く、「特殊=近代的」となる以前の契約意識では、契約は契約なるが故には遵守せられていない。然るに、ローマ人はただ信義の信念に従つてのみ、契約を尊重した。ポリビウスはさきのギリシャ人に関する記述に続き、「然るにローマ人のもとでは、政務官として、又使節として、極めて沢山の金額を管掌していても、ただ宣誓に従う信義そのものによつて(δἰ αὐτῆς τῆς καιὰ τὸν ὅρκον πίστεως)、その関係を守る」と云つている。宣誓とは神に対する誓である。然し、神の怒を恐れるが故に誓を守るのは昔の時代である。啓蒙された後人はそんな怒を最早何とも思わない。従つて、キケローも云うが如く、神を証人として約束したことが守らるべきは、「神の怒——それは何でもない——に関するからではなくて、正義と信義に関するからなのである(3)」。「宣誓に従う信義そのものによつて」とは、正義と信義によつてと云うのと同義である。
(1) Polybius 6, 57, 13. 同じくキケローもギリシャ人の不信を責めている。「自分は彼等〔ギリシャ人〕に文学は一目を置く、沢山な芸術の素養も認める、弁説の魅力も、叡智の鋭さも、話の豊富さも否認はしない。最後に又もし何かその他のものを彼等が自分に取りあげるならば拒絶はしない。だが証言の神聖や信義に至つては、この国民は決して育成しようとはしない。そしてこれ等すべてのことの力が何であり、権威が何であり、重々しさが何であるかは彼等は一向に知らない」Cicero, pro Flacco 4, 5. 「彼等にとつては宣誓は冗談である」5, 12
(2) 川島武宜「遵法精神の精神的および社会的構造」法協六四巻九・一〇合併号一〇—一頁。
(3) Cicero, de officiis 3, 29, 104: non ad iram deorum quae nulla est, sed ad iustitiam et ad fidem pertinet.
(b)諾成契約 そうした契約に於ける信義観からして、諾成契約(contractus consensu)や無方式の合意(pactum)の効力が認められて来る。今日の観念からすれば、かかる契約の効力はなんら特筆に値することではない。いなローマ法に於ては、諾成契約の数にも制限があり、無方式の合意も、それからは訴権は発生しないと云う原則はその最後の時代まで維持せられ、ただそれに対する例外が認められているに過ぎないと云うことは(1)、現代法と比較して、むしろいぶかるべきことである。然しながら、一度比較法史的に観察すれば、ローマ法はユニックな存在を示している。今例を売買に採ろう。ローマでは、既に紀元前二〇〇年頃には、諾成契約としての売買契約が認められていた。然るに、ゲルマン法や我が固有法では、要物契約の状態にまで進転したに過ぎず、メソポタミアやギリシャでは、売買は現実売買に限ると云う建前を最後まで捨てず、債権的売買の必要は他の擬制的手段を用いて——例えば、代金の弁済を猶予する場合には、それを消費貸借なり、寄託なりの債務に肩替えして置く——充たしているに過ぎないのである(2)。手附もいらない、物を渡すことも必要でない、方式のいかんも問わない、ただ約束は約束なるが故にその効力を持つと云う諾成契約は、正に遵法精神の権化であり(3)、それがとにかく、ローマでは早期に認められていることは、特筆に値することである。
(1) 拙著、上一八二頁以下、二一〇頁以下。
(2) 同、一八二頁—三頁。
(3) 川島武宜、前掲九頁。
(c)法務官法上の禁反言 約束遵守の精神は、要式行為が必要であるのに、無方式行為をして置いて、その行為が法律上認められていないことを楯にとり、自らその行為を否認する者に対して、禁反言的措置を採つた法務官の態度にもはつきりうかがわれる。市民法に従えば、res mancipiの移転にはmancipatio又はin iure cessio等の要式行為を必要とし、traditioでは所有権は移転しない。然しながら、自らres mancipiの引渡をして置いて、市民法上所有権の移転していないのを幸として、所有物取戻の訴(rei vindicatio)を提起するときは、法務官は被告に「売却して(或いは贈与して)引渡された物の抗弁」(exceptio rei venditae(donatae)et traditae)を許して、原告の請求をはねつけることを認めた(1)。同じく、棍棒による解放(manumissio vindicta)又は戸口調査による解放(manumissio censu)等の正式解放方法によらないで、友人の面前で解放したり(manumissio inter amicos 友人間の解放)、解放の意思を手紙で通告したりした場合(manumissio per epistulam 手紙による解放)も、もしかかる解放が法律の認めるものではないとの理由のもとに、旧主人が奴隷身分恢復の訴(vindicatio in servitutem)を提起しても、法務官によつて却下せられ、かかる被解放者はユーニア法以来、ラテン人と同一の地位に置かれるに至つた(2)。免除も市民法上は要式行為たる受領問答契約(acceptilatio)や銅と衡による解免(liberatio per aes et libram)を必要としたが、それによらずに、ただ無方式の免除契約をした場合でも、債権者がその約束を無視して訴えると、約束合意の抗弁(exceptio pacti conventi)が法務官によつて債務者に許可せられた(3)。
(1) 拙著、上一〇〇頁、一二〇頁。
(2) 同、五二—三頁。
(3) 同、下二〇頁、三三頁。
(d)契約の解除 契約遵守の精神は、ローマではむしろ馬鹿丁寧に過ぎて、契約不履行による解除とか、その他理由ある解除が困難になつている。売買には契約不履行による解除はローマ法上認められていない。ギリシャ法でも、ドイツ法でも、この権利が認められているのに、ローマ法は断然これを拒否し続けた(1)。賃貸借には種々の理由による解除権を認めたものがあるが、法文はいずれも修正の疑が多いとされている(2)。使用貸借亦然り(3)。所謂無名践成契約(contractus re innominati)に於ける相手方の履行前の所謂悔返の解除権(4)(condictio ex poenitentia)、手附に於ける解約作用(5)(arrha poenitentialis)はいずれも古典法には認められてはいなかつた。一旦約束したことには、たとい相手方に不履行があつても、その他正当な理由があつても、なお拘束せられると云うのが古典法の立前である。
(1) Schulz S. 153.
(2)(3) Schulz S. 154.
(4) 拙著、上二〇一頁—二頁。
(5) 拙著、下三五頁。
ローマ法とドイツ法を比較するとき、一見ローマ法が約束の拘束力に於て、ドイツ法に劣るが如くに見える場合がある。申込の拘束力(民法五二四条)は、ドイツ法起源で(1)、ローマ法にはなんら法源がない。然し、これはローマでは隔地者間の契約——この場合に一番申込の拘束力が問題となる(2)——が実際上余り問題とならなかつたために、法源上の問題とならなかつただけのことであろう(3)。又第三者のためにする契約は、ローマ法に於ては全幅的に承認せられるには至らず(4)、ドイツ法に比して発展が後れているが(5)、これはその契約観念が権利取得の意思に重点があつた結果(6)、契約当事者でない第三者に直接利益を与える契約の成立が困難となつたためで、約束遵守の精神が欠除していたからではない。
(1) Gierke III S. 284.
(2)(3) Schulz S. 153.
(4) 拙著、上一七二頁。
(5) Gierke III S. 383 ff.
(6) 拙著、上一七二頁。
(3)信託遺贈に於ける遵法精神 我々の今の観点から、終意処分で注目に値するのは、信託遺贈(fideicommissum)である。遺言の方式も借らず、証人も立てず、書面にもよらないで——尤も書面が一番普通ではあつたが、本来要件ではなかつた——、ただ相手方の信義に依頼した場合でも、その信頼を受けた人間が履行しなければ、その人間の羞恥心(pudor)が黙つていないではないかと云う徳義心が当初の出発点であり(1)、それが遂にアウグストゥスの権威も手伝つて、法的にも認められて、最後には同目的の遺贈(legatum)をむしろ凌駕するほどの重要性を示し、窮極にはそれと合体してしまつたのである(2)。
(1) In. 2, 23, 1「これが信託遺贈と呼ばれたのは、なんらの法鎖に依拠するのではなく、ただ依頼を受けた者の羞恥心に依拠するからである」。
(2) 拙著、下一四八頁以下。
(4)政務官の告示に於ける遵法精神 個人間の約束や契約が遵守せられねばならない如く、政務官の約束も亦遵守せられねばならない。但しこの公法の場合には、一方に政務官の権威主義(1)がひかえていたため、当初政務官の告示は、発布者がその任期中に必らず守らねばならないと云う法的義務はなかつたが、そのような背信行為は、大概ね取消権(intercessio)の客体となつていた(2)。紀元前六七年のコルネーリア法は、遂に法務官は自己の発布した告示に拘束せられる旨を規定した(3)。
(1) 一九八頁以下。
(2) Cicero, in Verrem II, 1, 46, 119「ウェルレースは、なんらの宗教心もなく、かつ自己の告示自体に違反して裁判した。そこでピーソーは、彼ウェルレースが告示したところに違反して裁判をしたために、彼が取り消した諸々の事件の幾多の調書を補充した」。Schulz S. 156. 船田享二「法務官の訴訟拒絶権」京城法学会論集第一冊(昭和三年)三八—九頁。
(3) 入江俊郎「ユース・プレートリウムの研究」二七頁(但し八一年は六七年の誤)。船田享二、(前註)四〇頁。
(5)皇帝の遵法精神 遵法精神の顕現は、法律の拘束を受けない国家権力者が、なお自ら進んで法に従うという態度に現われる。「皇帝は法律の拘束を受けず」(princeps legibus solutus est)の原則が、何時の頃から一般原則として認められたかは問題であるが、おそらくは第三世紀の初頭の頃からと思われる(1)。それまでは、特に個別的に法律なり元老院議決からの免除を得ているのでなければ、皇帝と雖もそれに従う義務があつた。然るに、Septimius Severus(一九三—八年)以後の東方的専制主義の思想の侵入甚だしく、一般に皇帝が法律の拘束を受けないと云う思想が抬頭したものと思われるが、しかもなお、皇帝は事実上自ら進んで法に従うと云う態度に出た(2)。儒帝の法学提要は伝えて云う、「神皇Severus及びAntoninusも亦これに従つて、屡々次の如く指令し給うた。曰く『けだし、朕は法律の拘束を受けずと雖も、なお法律によりて生活すればなり(3)』」と。これ不適法な遺言処分からは、皇帝は何物も請求しないと云うことを指令した場合の説明である。同じく二三二年のSeverus及びAntoninusの勅法に云う、「けだし、帝国の法律は皇帝を法の厳格形式より解きたりと雖も、法律によりて生活することほど主権に適応するものなければなり(4)」と。これ不完全な遺言よりして、皇帝が相続財産を主張しないことが屡々規定せられたことに対する理由づけである。Paulusは云う、「自らは拘束を受けずと解せられる法律を遵守するのは、かくも高い尊厳に相応しいことである(5)」と。不完全な遺言よりして、皇帝が遺贈、信託遺贈を請求しないことの理由である。又云う、「けだし、法律を作る者が均しい威厳を以て法律に従うのは適当だからである(6)」と。皇帝が相続人に指定せられても、なお不倫遺言の訴の提起し得る所以の説明である。更に又云う、「濫争権能は皇帝の威厳を以てするも取得せらるべきではないからである(7)」と。訴訟あるため、皇帝を相続人に指定することも許されないことの説明である。四二九年のTheodosius II及びValentinianus IIIの勅法に於てさえなお「皇帝自らが法律によりて拘束せらるることを宣言することは、支配者の威厳に相応しき声なり。実に朕の権威は法の権威に依拠するなり。実際帝威を法律に服従せしむることは、命令権より更に偉大なり(8)」と云う。こうした自発性は、未だ皇帝が法律の拘束を受けないと云う一般的原則が確立しない以前にも、固よりあつたであろう。例えば、ハドリアーヌス帝は、遺贈減殺のquarta Falcidia制は、皇帝に遺贈が為された場合にも適用あることを是認している(9)。従つて又、皇帝が現存法律に自ら服し得ないと考えた場合には、法律改正の手段に出た。Claudiusはその姪Agrippinaを娶つたが、当時の法では伯叔父・姪間の結婚は許されていなかつたので、元老院議決で法を改正せしめて娶つたのである(10)。実質的には、これは自己の意思を強行するものであつたであろう。しかもなお、法を形式的にも無視するよりは優つたことも確かである。皇帝が従つたのは、拘束力ある法律のみではなかつた。未だ法律的効力のなかつた小書附(codicilli)による信託遺贈を自ら進んで履行し、信託遺贈の法的効力附与の緒口をきつたのは、実にアウグストゥス皇帝自身であつた。皇帝は法律生活に於ても万人の師表であり、彼行わば、臣民は「彼の権威に従つて」行動したのである(11)。
(1) 船田享二「元首の立法権に関する古典法律学者の理論」京城帝国大学法学会論集第七冊別冊二七頁。
(2) 同、二四頁。以下の史料については、なおMessina Vitrano, II fr. 31 `de legibus' I, 3, Studi Brugi 1910 p. 328--9参照。
(3) In. 2, 17, 8: licet enim legibus soluti sumus, attamen legibus vivimus.
(4) C. 6, 23, 3: licet enim lex imperii sollemnibus iuris imperatorem solverit, nihil tamen tam proprium imperii est, ut legibus vivere.
(5) D. 32, 23 Paulus: decet enim tantae maiestati eas servare leges, quibus ipse solutus esse videtur.
(6) Paulus 4, 5, 3: eum enim, qui leges facit, pari maiestate legibus optemperare convenit.
(7) Paulus 5, 12, 8: nec enim calumnandi facultatem et principali maiestate capi oportet.
(8) C. 1, 14, 4: digna vox maiestate regnantis legibus alligatum se principem profiteri: adeo de auctoritate iuris nostra pendet auctoritas, et re vera maius imperio est submittere legibus principatum.
(9) C. 6, 50, 4 Alexander.
(10) Gaius 1, 62. Girard-Senn, Manuel élémentaire de droit romain 8 éd. 1929 p. 173.
(11) In. 2, 25, pr. なお一九七頁参照。
第四章 法実現の組織
一 概説 法の実現は遵法精神にのみ期待することはできない。そこには又実現のための制度と機構が必要である。シュルツは、「いずれにせよ、共和政及び古典時代には、国家的保護は充分な程度で担保せられていた(1)」との判断に到達している。ローマ人が法実現に対して、諸種の問題を考え、実現に努力していることは、固より確かであるが、その解決方法が果して非凡な優秀さを示しているか否かは問題である。この問題を観察するがためには、司法制度の全般的叙述を必要とし、到底簡単に説き尽せるものではないが、ここに若干の問題を取り出して考察して見よう。それは今日から見て平凡な問題であつても、ローマ法の内部に於ては、早期からあつたり、他の部門では認められていないものがあつたりして、注目に値するものがある。考察は主として民事訴訟を中心として行われる。刑事訴訟については、自由の原理(2)に於て、幾分触れるところがあろう。
(1) Schulz S. 165
(2) 一六六頁以下。
二 裁判の神聖 裁判は神聖でなければならない。この点に関する国民感情の発露は、破廉恥(infamia)の制度である。周知の如く、法務官は告示に於て、軍籍褥奪者、俳優、娼家の業を営む者、公訴に於て誣告をなし、もしくは相手方の利益を図つたために有責判決を受けた者、盗、強盗、人格権侵害、悪意、詐欺等の不法行為の訴に於ける敗訴者もしくは和解者、組合、後見、委任、寄託等の信義関係を基礎とする法律関係の訴訟の中直接訴訟の敗訴者、服喪期間を守らずして結婚せしめた権力者、かかる女を娶つた夫、娶らせたその権力者、重婚者、二重許嫁者、かかる重婚二重の許嫁をさせた権力者等の社会的不名誉者に対して、一定近親外の他人のために訴訟の申立をなし(pro alio postulare)、他人を自己の訴訟代理人となし、他人のために訴訟代理人となることを禁止した(1)。こうした措置は、イェーリングも主張するが如く、国民の道徳的感情の直接の表現であり、ただ国民そのものの中からのみ生まれ出て来るものであつて、立法家が考案できるものではない(2)。ローマ国民の道徳的感情は、法廷がかかる不名誉者によつて、汚されることを潔しとせず、法務官も己が威厳(dignitas)にも栄誉(decus)にも関することとして(3)、そのような処置に出でざるを得なかつたのである。
(1) D. 3, 2, 1 Iulianusの表には修正がある。今はただそこに掲げられた者のみを掲げ、小さな修正の問題には触れない。拙著、上五九—六〇頁。
(2) Jhering I S. 281. 新なPommerayの研究(Études sur l'infamie en droit romain 1937)もイーンファーミア制度のréaction du sentiment populaireを強調する。
(3) D. 3, 1, 1, pr. Ulpianus.
三 裁判の公正 裁判は公正たるべく、偏頗であつてはならない。
(1)公開主義 第一に、それがため広く一般の批判を可能ならしめる公開主義を採用する(1)。これは民事刑事を通じて、通常原則であつた。ローマの通常民事裁判は、法廷手続はコミティウムに於て、法務官は一段高い段の上で(pro tribunali)、象牙をちりばめた椅子(sella curulis)に坐し、審判人はコミティウム又はフォールムで、これ又通常一段高い段の上で、白昼衆人環視のもとで行われる。帝政時代には、政務官の活動は通常は屋外では行われなくなつたが、民衆の出入を禁止することは稀であつた。刑事裁判では、帝政の執政官・元老院による刑事裁判は非公開主義であつたが、以前の政務官・民会の刑事裁判も、常設査問所(quaestiones perpetuae)の裁判も、帝政の皇帝の刑事裁判も、公開主義が通常採られていた。絶対専制政治時代の皇帝さえ、「汝はすべての民事事件就中評判を以て聞えたるもの、更には刑事問題も、公に(publice)聴取することを要すべし(2)」として、この原則を守ろうとしている。
(1) Mommsen, Strafrecht S. 359 ff.; Wenger S. 72--3.
(2) C. Theo. 1, 12, 1 Constantinus (a. 315).
(2)裁判関係者の責任 第二に、裁判の公正を害する裁判関係者の悪意又は過失の行為に対し、刑事又は民事の責任を問う。審判人の法律違反の判決、証人の偽証、審判人及び証人に対する贈賄及びその収賄等が、古く十二表法の昔より法律規定の対象となつて、所謂偽罪(crimen falsi)を構成し、頭格刑、流刑等に処せられる外(1)、民事的にも場合によつては、原状恢復が許される(2)。審判人が悪意で法をまげて裁判した場合、更には過失で誤判した場合には、法務官は不法行為の立場からして、審判人の責任を追求する。所謂「もしも審判人が訴訟を自己のものとしたとき」(si iudex litem suam fecerit)に該当し、被害者は公平と観ぜられる額を請求することを得る(3)。一旦判決が下つた以上、政務官の取消権も発生せず、相手方も責を免れるので、代つて審判人自身に責任を問うのである。
(1) Mommsen, Strafrecht S. 668 ff. 十二表法の規定、偽証(八表の二三)、賄賂の収受(九表の三)、末松謙澄訳二九六頁、三〇三頁。
(2) Wenger S. 202.
(3) 拙著、下一七—八頁。
(3)訴訟物譲渡の禁止 第三に、当事者をして正々堂々最後迄訴訟を争わせるために、不当な第三者の勢力を介入して、公正を害する行為を、或いは罰し、或いは無効とする。十二表法は訴訟繋属中の物件を神に献納することを禁止し、これに違反するときは二倍額の罰金を命じ(1)、遺言者と第三者との間に訴訟あるがために、第三者を相続人に指定するが如き行為をなすも無効であり、皇帝が指定せられても、自らかかる相続は受けずと言明している(2)。
(1) 一二表の四(末松謙澄訳三三〇頁)。
(2) 四三頁註7。
(4)法廷手続と審判人のもとに於ける手続の分化 第四に、通常訴訟手続が法廷(in iure)手続と審判人のもとに於ける(apud iudicem)手続に分れたのは、歴史的発生的にはどんな理由によつたかは別として(1)、かくの如く「協力者としての職分を与えることによつて」、「偏頗な司法の危険を本質的に弱め」る結果になり、「両者のために相互の道徳上の牽制をかもし出したこと」をイェーリングは重要視する(2)。即ち法務官の決定に対して、当事者が直ちにその面前で率直な批判をすることは、事実不可能であるが、審判人の面前では、おめず臆せず、自由に方式書に対して批判ができたこと、反面審判人も判決を下すに当つて、既に法務官に一応事件の概要を知悉せられているので、勝手な裁判ができないと云うのである。
(1) 通説は法廷手続を以て、当初の人民の手になる仲裁手続に対し、ローマ国の基礎が固つた後に、国家が関与するに至つたときに発生したものとするに反し、反対説は当初の王の絶対裁判権に対し、民主的要素として附加せられたものが審判人のもとに於ける手続であると解する。船田享二「近代訴権理論形成の史的研究」京城帝国大学法文学会第一部論集第三冊(5)九九頁註5、拙著、下一五九頁。
(2) Jhering II S. 79--80(五号一四九—一五〇頁).
四 裁判の適正 裁判は公正であるのみならず、適正でなければならない。それがためには、裁判にたずさわる人の契機が重要な問題となるが、然しながら、それについては、特別の法律的措置はない。司法政務官は政務官選任の手続によつて任命せられるし、審判人は審判人の表(album iudicum selectorum)に載せられた者の中から、当事者の契約によつて選任せられる。法の規定はそれだけである。ただ共和政帝政前期には、これ等の者は通常元老院議員階級か騎士階級の出であつたから、社会的にも有力な、一応の教養を備えた者が司法担当者であつた(1)。殊に審判人は当事者が契約によつて具体的に選ぶのであるから、不適当と思われる者は事実多分に排斥し得たであろう。固より、長い間の幾多の事件には、必らずしも適正な人を得なかつた場合もあつたことは疑わない。キケローによつて弾劾せられたVerresは、シシリアの県知事として、審判人に迫るに刑罰の威嚇を以てし、判決を取り消さすの暴挙を敢てしたし(2)、習俗の廃頽した時代には、Titius(キケローの認めていたCrassus時代の弁護人)が語るような——「彼等は脂を丹念に塗り、気に入りの嫂さん達に囲まれて、賭博に興じている。十時になると、奴隷を呼ばせて、フォールムで何が行われたか、誰が説得し、誰が弁駁し、いくつの部会《トウリブス》が命令し、いくつの部会が禁止したかを聞きにフォールムに行かせる。それから彼等は訴訟を自己のものとする責任を負わされては困るので(3)、コミティウムへ行く。行く途中でも、小路へ這入つて〔小便を〕充たさない壷とて一つもない。葡萄酒の泡を一杯かかえこんでいるんだからなー。しよんぼりしてコミティウムヘ来ると、事件を云えと命令する。事件の当事者が説明すると、審判人〔先生〕証人を要求して、御自身は小便に行く。帰ると自分はもう皆聴いたと云つて、証書を要求し、文字に眼をやるが、葡萄酒のためにとても眼瞼を保つては居れない。諮問に這入れば、こんなことを云う、『こんなつまらぬことでどうすればよいんだ。それよりはギリシャの葡萄酒を飲んで、肥つた鵜と、上等の魚と、両橋の間で捕つたまぎれもない海狼【魚名】を喰つた方がよいさ(4)』」と——ぐうたら者もいたであろう。ただかかる者が一般の司法を常に支配していたとは云い得ない。世の語りぐさとなるのは著名なスキャンダルであり、弁護人の語るところにも、多分に誇大したレトリックが介入していることも見逃してはならない。第三期古代末期には裁判官の信用は確かに地に墜ちた。古典時代も過ぎた二四六年に、CyprianusがDonatusに宛てた書簡には、司法の威信失墜を伝えた次の如き一節がある。固より異教世界に対する抗議文であるから、相当大きな誇張があり、割引して考えねばならないが、威信失墜の兆は被うべくもない。曰く、「何人がこのような状態の間にあつて、助けに行くか。弁護人(patronus)か。が然し、彼はぐるになつて欺いている。審判人(iudex)か。が然し彼は判決を売つている。犯罪に復讐すべき筈で、ベンチに就く者が、犯罪を受け入れ、潔白の被告が滅ぶために、審判人が害する者となつている。どこでも不正が横行し、至るところ罪悪の種々の種類で、邪悪な心によつて、害毒が加えられている。或る者は遺言を蹂躙し、或る者は恐るべき詐欺を以て偽りをたくらみ、或る場合には子供が相続財産より閉め出され、他の場合にはあかの他人が財産を受けている。敵意ある者が殊更に無実の罪を帰せしめ、濫争者が戦い、証人がののしつている。‥‥法律に関してなんらの惧れもなく、訊問者審判人に関してなんらの恐れもない。〔金で〕賠い得べきものは、恐れられることはないのである。いな既に加害者の間にあつて害を加えないことは犯罪であり、悪者を模倣しない者は誰でも犯罪を犯しているのである云々(5)」と。Ammianus Marcelinusの三七四年に関する記述も、裁判官、弁護人、学者その他の裁判ごろが互に司法を毒し、裁判官は賄賂を取つて裁判を売る、弁護人はただこれ三百代言で訴訟を延引してむさぼる、学者は嘘をついて捲きあげる——母を殺しても、深遠奥妙の著述の中には、母殺しを無罪にできるようなことが書いてあると云つて、金銭を捲きあげていると云う——、取り巻き連中は当事者につけ廻つて、訴訟事件を鵜目鷹目で探し廻つている有様を描いて居り(6)、特に官の不法な金銭的要求は目に余るものがあり、コンスタンティーヌス帝も、「官の強奪の手今にして早くやめよ、朕は重ねて云う、やめよ。けだし、もし勧告せられたるになおやめずんば、剣にて刎ねられんのみ(7)」と司法官吏に対して、憤激的警告を発している。
(1) Schulz S. 162--3.
(2) Cicero, in Verrem II, 2, 13, 27.
(3) 四七頁参照。
(4) Macrobius, Saturnalia 3, 16, 15--16.
(5) Cyprianus, ad Donatum 10.
(6) Ammianus Marcellinus 30, 4.
(7) C. Theod. 1, 16, 7 Constantinus. Wenger S. 326
裁判にたずさわる人についての契機が上記の如くであつたから、これに法律上法律の知識を具有することも要求はしなかつた。僅かに弁護人——それだけである——の要件として、帝政も後期に——少くと五世紀には確実である——、法学校に学び、一定年限在学して、教授の履修証明を得ることが必要となつたが(1)、以前にはそのような一定の形式的コースは全然なかつた。司法政務官も、審判人も、その属する階級の教養故に、又特に司法政務官は法律の知識を有することが官吏一般の立身出世に好都合であつたことの故に(2)、抽象的に、或る程度の法律的知識を有するものと想像せられていると云う程度であつて、実際法学者であることはあつても(3)、法学者たることを法律上要求せられては居らず、法律上は素人たることが前提せられているのである(4)。従つて審判人には最後の手段として、「自分にはできないと宣誓して」(iurare sibi non liquere)、訴訟事件を投げ出すことも認められているのである(5)。それ故、裁判に諮問機関が絶対に必要なことは自明の理である。司法政務官も、審判人も、所謂諮問会(6)(consilium)を召集し、法律問題について諮問し、政務官の発言が実は諮問員(consiliarius, adsessor)の言の繰返しに過ぎない場合も極めて多かつた。帝政期には政務官のための常設諮問会が生まれ出た。特に皇帝の諮問会の如きは最高権威であつた。諮問員自らは政務官ではないが、将来官職に就く前提段階として、良家の青年は法学履修後、この構成員となることを好んだ。問題が困難な場合には、政務官も審判人も法学者に直接意見を問い、或いは皇帝の指令——それは皇帝の諮問会の議に附せられる——を仰ぐ途もあつた。かくして裁判を実際に運行したのは表面の人間ではなくて、蔭の女房役法学者であつた。
(1) Krüger S. 393.
(2) 二一頁以下。
(3) 共和政のAquilius Gallusはキケローが弁護したQuinctiusの事件の審判人となつたことがあり(Krüger S. 138)Rutiliusもおそらく法務官となつたことがある(Krüger S. 63)。
(4) 船田享二、前掲(四九頁註1)一九—二一頁。
(5) Gellius 14, 2, 25. Wenger S. 195.
(6) Mommsen, Strafrecht S. 137 ff.; Schulz S. 103--4.
五 裁判の迅速 裁判は迅速に解決せられねばならない(1)。アウグストゥスの裁判法(lex iudiciaria)によつて、従前期間の定めのなかつた法定訴訟(iudicium legitimum)は、争点の決定後一年半以内に判決が為されねばならず、命令権に含まれる訴訟(iudicium imperio continetur)は、その訴訟を許した政務官の任期中に解決せられねばならない(2)。審判人が裁判を懈怠するときは、法務官は罰金の宣告(multae dictio)、担保の徴収(pignora capere)等の懲戒的権力を以て義務の履行を促す(3)。更に審判人はさきの「訴訟を自己のものとする」責任を負わされる(4)。然し、実際問題としては、既に古典時代に訴訟延引の兆が見えている。ウェスパシアーヌス帝の時代に、百人官法廷について、「百人官訴訟を実行するには、訴訟人の一生涯かかつても、到底充分とは思えなかつた(5)」との嘆声が聞え、マールティアーリスは二十年も引きのばされた訴訟を登場させ(6)、布晒人の実際訴訟で、二二六年から二四四年にまたがつた事件が伝えられ(7)、ゼーノーの代には、弁護人が三十年も訴訟を延引した報告が残つている(8)。
(1) Wenger S. 168; Friedländer I S. 332; Schulz S. 164--5.
(2) Gaius 4, 104.
(3) Jhering II S. 80(五号一五〇頁).
(4) 五〇頁のTitiusの言参照。
(5) Suetonius, Vespasianus 10.
(6) Martialis 7, 65.
(7) Bruns, Fontes Iuris Romani Antiqui 7 ed. Nr. 188.
(8) Schulz S. 165 Anm. 23.
六 裁判費用の軽減 裁判の実行を容易ならしめるためには、訴訟費用の負担を極力軽減しなければならぬ。帝政期に入るまでは、裁判は無料であつた。法務官のような高位の栄官、審判人が通常属する社会的地位は、その裁判の職と金銭を結びつけるには、余りにも高貴に過ぎた(1)。ただ法律訴訟中、神聖金による法律訴訟(legis actio sacramento)では、訴訟物の価格に応じて、神聖金を寄託し、敗訴者は自分の賭けた神聖金を失うが(2)、それは実は訴訟を実行するに要した費用ではない。それに応じて弁護人の仕事(3)も当初は無料であつた。紀元前二〇四年頃の法律と思われるCincia法は、訴訟のための弁論(ob causam orandam)に報酬を受け贈与を貰うことを禁止し(4)、アウグストゥスも、「弁護人が無報酬で弁護をするか受領した額の四倍を支払うべきことを命令した(5)」。然しながら、かかる禁止は実際には行われず、遂にクラウディウス以来(6)、一万セーステルティウスを限度として、報酬が認められるようになつた。固より貪欲な弁護人中には、これ等の規定に違反して産をなしたような者もあつた。然るが故に、セネカは弁護士業者を「金儲け人」(venale genus)と呼び(7)、弁護人の女房は大食漢——夫の貪欲が妻に移つて、こんな形で今度は妻に現われるのだと云う——と云うことになつていた(8)。特別訴訟手続とともに、訴訟に要する費用も増大し、帝政後期には余りにもかさむ手数料(sportulae)は苦情の種となつて居り、弁護人についても古の制限は行われず、ディオクレティアーヌス帝の最高物価報酬統制令にも、その最高額が規定せられている。(9)
(1) Wenger S. 321.
(2) 拙著、下一六四—五頁。
(3) Kubitscheck, v° advocatus in PW. I S. 435 ff.; Friedländer I S. 263, 328 ff.
(4) Tacitus, annales 11, 5.
(5) Dio Cassius 54, 18, 2(紀元前一七年).
(6) Tacitus, annales 11, 7.
(7) Seneca, apocolocyntosis 12, 3, 54.
(8) Fronto, epistulae ad Marcum Caesarem 2, 19, 2 「自分の妻のグラーティアは、よく弁護人の妻が云われているようには、大食漢ではなかつた」。
(9) 七の七二・七三、拙稿「ヂオクレチアーヌス帝の最高物価並びに賃銀報酬統制令の研究」国家五八巻八号一五頁。
七 濫争防止手段 無駄な裁判を禁止するためには、諸種の濫争罰を課さなければならない(1)。訴訟が無料であれば、得をしても損をすることはないため、殊に濫争の弊に陥り易く、これに対してはローマ法も幾多の手を打つている。既に法律訴訟の昔から、敗訴者は神聖金を失つているが、濫争するものでないとの宣誓、敗訴した場合に訴訟価格の幾分の一を支払うとの両当事者間の問答契約、濫争者——ゼーノー以来は単純に敗訴した者も——の訴訟費用負担、更に被告の側では、敗訴時のinfamiaの制裁、敗訴判決による倍額責任、専決訴訟(actio arbitraria)に於ては、審判人の返還命令に従わない被告に対して、原告の一方的宣誓額で判決額が定められる原則、原告の側では、悪意で訴えた場合の訴訟価格十分の一の罰金、更に法務官の規定する不法行為としての濫争(calumnia)の責任等々の如し。
(1) Wenger S. 321 ff.
八 訴訟事務管理、訴訟代理 訴訟の提起が事実上不能や困難な場合には、これを保護する制度を考えねばならない。事務管理の起源は、実に委任を受けていない者が、不在者のために訴訟をしたり、死亡者の訴訟を続行した場合に、法務官が保護したのに始まると称せられる(1)。訴訟行為は当事者自身が自ら行うのが法律訴訟の原則であつたが、後方式書訴訟以来、訴訟代理の制度を認め、遂に私法上は認められていなかつた直接代理を認めるに至つた(2)。これ等は私権保護に関して、必要と関心が深かつたからに外ならない。
(1) Jörs-Kunkel, Römisches Recht 1935 S. 247-8.
(2) 拙著、上八六頁、下一七八頁。
第五章 法規範の独立、法規範の分化
一 法規範の早期の独立 民族生活の若々しい時代には、法は宗教や道徳や習俗と未分化のままで混然たる一体をなし、相互の間に明確なしきりを以て区画せられることはないが、民族が成年期に達すると、これ等各々の生活機能は独立する(1)。このような発展を各民族について省るとき、ローマ法の発展は、他の民族に比して迅速であり、早期にこの発展段階を卒業している。ドイツに於て、法が習俗と分離し始めたのは十四五世紀の頃と云われる(2)。ギリシャに於ては、最後まで充分の分化状態に到達しなかつたようである(3)。インドに於ても、「法は他の東方民族に於けると同様、宗教又は倫理の主要な構成分子を形成している(4)」と報ぜられている。然るにローマに於ては、この規範の分化は極めて古くから行われた。人法(ius)と神法(fas)、法(ius)と習俗(mores)の分化は、既に十二表法の時代には疑なきものと考えられる。おそらく、この十二表法自体が法規範の独立に対して、決定的な一役を買つたであろう(5)。その意味では、ローマは早くから法の大人となつたと云い得る。然しながら、かくの如く分化はしても、法はそれ自身のみで足り、他の規範は不要と考えたのでは固よりない。いな法の分化独立の後も、法は他の社会規範に対して、その機能の充分な活動を期待して、自己の発展形成を遂げたのである。従つて、他の社会規範がその任務を果さなくなつたときは、法は又自ら反省し直して、それに代る法規範を自ら形成し直さねばならなかつた。
(1) 久保正幡「ゲルマン法の象徴主義」国家六二巻三・四合併号一〇頁、Schulz S. 14.
(2) Fehr, Deutsche Rechtsgeschichte 1921 S. 202.
(3) Weiss, Griechisches Privatrecht I 1923 S. 18. 船田享二「法律思想史」六五頁。
(4) Jolly, Recht und Sitte 1898 S. 1.
(5) 人法と神法の分離時代について、Jörs, Römische Rechtswissenschaft zur Zeit der Republik I 1888 S. 80(十二表法が神聖法からの分離の芽ばえを下す). Berger, ius sacrum in PW. X 2 S. 1296 (十二表法が私法規範の神聖法規範よりの分離に対して、最初の決定的機縁を与えた). 法と習俗の分離時代について、Kaser, Der Inhalt der patria potestas, Sav. Z. 58(1948)S. 67 (十二表法時代にはその分離が認められる).
二 人法と神法の分化 人法と神法が分離独立して、人法はその領域に於ては、世俗的政務官が管掌し、世俗的裁判によつて強行せられたのに反し、神法はその領域に於ては、宗教官が管掌したが、これを強行するものは神を恐れる心、宗教心以外になかつた。かくの如く、異る機関により、別々に社会規範が担当せられたが、古代宗教は国家宗教であり、宗教官は国家の機関であつたから、中世のキリスト教世界に於て見られたような、世俗宗教両権力の内的相剋と云うものは、ローマには起らなかつた(1)。
(1)国際法 人法と神法が分化した後も、依然として一番長く神法の領域に属せしめられたものは、国際法であつた。ここに於ては、人法を以てこの関係を規律することはできなかつたので、専ら神法のもとに置かれていた。国際間の戦争平和に関する法は、専ら宗教の保護のもとに置かれた。宣戦の布告にも、講和の締結にも、常にユーピテルを証人とし、宣誓と呪咀は国際協約の常套的担保手段であり、verbenaeとかsagminaの如き聖草や牡羊の如き神聖不可侵の象徴に頼ることも、ここでは——他の領域とは反対に(2)——行われた。ここでは神法は人法に欠けたところを補う必須欠くことのできないものであつた(3)。
(1) Mitteis S. 22.
(2) 一〇四頁。
(3) Mitteis S. 23. 春木一郎「Fetiales」京法四巻一一号、山路鎮夫「羅馬時代ニ於ケル国際法ニ付テ」法協三六巻九号一二九貝、一二三頁。
(2)刑事法 比較法上宗教的要素は往々刑事法の領域に現われ、犯罪は神に対する穢を含むものであるから、贖罪の犠牲を供し、祓を以て祓い潔めるとか、犯罪が神に対する冒涜であるから、刑罰も神の復讐であり、これを鎮めるためには、宗教的な刑罰を以て償わねばならぬと云うような思想が往々見受けられる(1)。ローマに於ても、そのような時代の名残は、神々に犯罪人を喜捨する神聖罰——sacer esto 神聖たるべし——や、後代まで長く残つた皮袋の罰(poena cullei)(2)——犬と猿と鶏と蛇と共に犯罪人を袋に入れて水に投ずる罰——等に残つているが、「歴史時代には、然しながら、いかなる刑罰と雖も、その前提要件は正確に法律によつて確立せられ、その性質上ただ宗教上の領域に触れるに過ぎない犯罪が問題となつているのでない限り、それは国家権力により執行せられることによつて、国法上の確たる基盤の上に据えられている。刑罰が純粋に宗教的に考えられた時代がかつてあつたとしても、その宗教的要素は、歴史時代には、ただ形式たるに止まり、世俗的犯罪に対する宗法的(geistlich)刑法、宗法的裁判及び宗法的執行は考証はできない(3)」と云われている。比較法制史上その例の多い神判の如きは、ローマにはなんらその例は伝わらない。即ち人法が神法に譲つたものは、宗教犯罪だけであり、ただ刑罰について、古来の宗教的臭のするものを維持利用していただけである。
(1) 拙著「楔形文字法の研究」二七三頁。
(2) 春木一郎「Poena cullei」京法七巻三号。
(3) Mitteis S. 24--6.
(3)国法 国法上も、神意啓徴(auspicium)は、官吏の就任、将軍の出征、市又は植民市の設置、軍隊の解除、戦争の開始、dictatorの任命、元老院又は民会の開会等の国政上の行為に伴い、無視することのできない重要な行為を形成するとは云え(1)、これ又歴史時代には形式であつて、僧侶政治的機構は、およそローマの当初より存しないと云つてよい(2)。国法の実質を形成したのは人法であつた。
(1) 春木一郎「Augures」京法四巻一二号一〇八頁。
(2) Mitteis S. 26.
(4)民事法 私法や民事訴訟は少くともその規範分化後は、全く世俗的・市民的(weltlich-bürgerlich)と云つてよい(1)。前世紀以来、往々諸々の制度や規定の宗教的起源論が唱えられ、特に誓約(sponsio)や、神聖金による法律訴訟(legis actio sacramento)や、皿と布による捜査(quaestio cum lance et licio)の宗教的起源論は、我が国でも主張せられた(2)。然しながら、たといこれ等個々の制度が宗教的起源であつたとしても、歴史時代には完全に世俗的になり済まし、宗教的臭味は感ぜられない。祭祀相続の観念は否定できないとしても、相続の目的が祭祀だけであつたとは考えられず、養子縁組の動機が祖先の祭祀にも関係を持つことは疑いないが、養子縁組自体を神法上の制度と見ることはできない。そうした制度の宗教的起源論よりも、現在の我々にとつて問題なのは、人法が余りタッチしない家族制度に対し、神法は習俗と同様、実際規範として活動したかどうかである。伝説は王政時代の諸王の立法として、家長権の制限を伝える。生児遺棄に関してロームルスは息と長女の遺棄を禁じ、更に最寄五人の証人の立会を以て畸形児の出生直後殺す場合を除き、三歳以前に殺すことを禁止し、この法律に従わない場合には、財産の半を国に没収する外、他の刑罰を課し(3)、子の売却に関して、ヌマは結婚に同意した後はこれを売却することを禁止し(4)、妻の売却に関して、ロームルスは「下界の神々に捧げらる」べき旨を規定し(5)、妻の離婚について、ロームルスは子に対する魔術の施行、鍵の偽造、姦通以外の原因で追放することを禁止し、これに違反するときは、財産の一半は国有となり、他半はCeresの供物となるべき旨を規定し(6)、子が親を擲つた場合には、ロームルス及びタティウスは神聖罰を課し、同じ罰はセルウィウス・トゥルリウスによつて嫁が擲つた場合に及ぼされている(7)。更に又奴隷を虐待した場合にも、多分に宗教上の保護のあつたことは、次の如き挿話からも推測される。曰く「ローマ建国後二六四年、某Autronius Maximusが己が奴隷を鞭打し、絞架に縛り演技開始以前に競技場を引き廻した。この故にユーピテルに不興あり。眠りにあつた某Anniusに、残酷を極めた行為は己が意を得たものでない旨を元老院に伝うべしと命じた。彼が黙していたところ、突然の死がその子を奪い去つた。再びその意を伝え、同じく等閑に附していたところ、自らも突然身体の衰弱に力が弱つた。かくて遂に友の誘に従い、担架に運ばれて、元老院に行つた。話終るや、忽ち健かな健康を恢復し、徒歩で議事堂を出た(8)」と。この話は主人自身に対する神の怒に関するものではないが、このような神罰は当然主人自身にも起り得たことであろう。これ等神法上の家父権主人権の制限は、事実としての信憑性などは問題にし得ないが(9)、古い時代には、実際規範として行われていたに違いない。ただこれ等はいずれも王政時代か、その直後のこととして伝わるだけで、後の時代にも、実際規範として行われたか否かは明らかでない。おそらくは、後の時代のこととして伝わらないのは、次の習俗と同じ程度には実際規範として行われなかつたためと思われる。
(1) Mitteis S. 26.
(2) 春木一郎「Stipulatio」京法三巻五号、同「Legis actio sacramento」京法六巻一号、同「十二表法ニ於ケルfurtumニ付テ」法協三七巻一〇号一七頁。私はこの種の起源論については今は触れない。
(3) Dionysius 2, 15. 拙稿「古典世界に於ける生児遺棄の研究」春木論文集三二六頁。
(4) Dionysius 2, 27; Plutarchus, Numa 17. 拙稿「厳格市民法に於ける羅馬家族法の研究」国家四二巻一二号一二〇頁註5。制裁については記載なきも、おそらく、神聖法上のものならん。Kaser, Sav. Z. 58(1948)S. 70.
(5)(6) Plutarchus, Romulus 22. 拙稿、前掲(註4)一二〇頁。
(7) Festus, v° plorare.
(8) Macrobius, Saturnalia 1, 11. 拙稿、前掲、国家四三巻二号一一九頁註12。
(9) Ceresの信仰は後代に属し(Mitteis S. 29)、財産一部の没収はカエサルの時に始めて見えるに過ぎない(Mommsen, Strafrecht S. 1005)。
三 法と習俗の分化 いずこの民族でも、法は道徳倫理感情と合一した混沌の状態から出発する(1)。その流動的実体には未だ法の要求する確固不動性が欠けている。ローマに於ては、貴族と平民の階級的対立の故からも、平民はかかる不明確な習俗に満足はできなかつた。そのような習俗から抜け出して、確たる法に到達するには、是非とも立法が必要であつた。法の国では、その完成期には、立法はでき得るかぎり控目であつたが(2)、その揺籃期には、その基礎固めに、立法はなくては済まされない法の形成者であつた。特に私法の成文化が早期に行われた(3)。その最たるものは、固より十二表法であつた。イェーリングをして云わしむれば、法律なくんば訴権なし(nulla actio sine lege)であつた(4)。法が習俗から独立しても、従前の習俗は固よりそれで不用になるわけではない。習俗にはおよそ始から法とは無関係のものもあり得る。又関係のある部門でも、それは依然としてなくてはならない社会規範であつた。ただ各規範の担当者が別々となつて、一方は法務官(praetor)であつたのに対し、他は戸口総監(censor)となつた。戸口総監は十二表法の制定後間もなく四四三年に創定せられ、戸口調査(census)を最も大きな仕事としたが、なお習俗(mores)の維持と云う我々の観点にとつて、極めて重要な任務を帯び、当初はさして重要と思えなかつた官も、いつしか極めて権威ある官となつ(5)た(6)。その習俗維持のための制裁手段は、単なる訓戒に止めない場合には、市民の名簿、元老院の名簿、騎士の名簿の中で、戸口総監の譴責に値する行為をなした者の所に譴責事由を記入すること(nota)であつて、これによつて、衆人指弾の的とする道徳的制裁であつた。但しこの譴責処分の結果、元老院を追われ、馬を取り上げられて騎士の資格を失い、所属の「部会」(tribus)を追われローマ附近の四つの部会の一で、大勢の者とともに表決権を行使し、財産額に比例せずして租税を徴収せられるような不利益を受けることも往々あつたから、純粋な社会道徳的制裁とのみ云いきることもできないが、根本の立前が社会道徳的見地に立つていることは、認めざるを得ない。戸口総監は市民各自の生活の仕方(mores)につき訊問する権利を有し、彼が自ら不名誉者と認定した場合には、上のような手段に出た。その警告、譴責に触れる事由は、専ら戸口総監の自由裁量によつて定まるのであるが、実際例をモムゼンに従つて分類すると、下の如くになる(7)。
(イ)敵前に於ける兵士のなすまじき行動、上官の命令に対する不服従。
(ロ)徴兵申告義務の懈怠、不当な休暇の延長、不当な兵役免除。
(ハ)下級官吏の義務不履行。
(ニ)官の職権濫用、義務不履行。例えばいつわりの神意啓徴を以て他の官の行動を妨害し、不法に元老院を召集し、同僚政務官の取消を無視し、自己に託された地位を期限前に去り、生死の権を戯け半分に行使し(宴席で、娼妓の懇請をいれ、死刑囚の首を刎ねた如き)、賄賂を受け、金銭を不当に誅求し、国家に害毒ある法案を民会に提出し、無実の訴追を行うが如し。
(ホ)審判人の権限濫用、特に賄賂の収受。
(ヘ)不当な表決。無実な有責判決を行つたと云う理由のもとに、ほとんど全市民にノータを発したことがある。
(ト)階級標識の不当な使用。
(チ)政務官に対する市民の不遜不真面目な挙動。
(リ)市民の名誉に関する事件に於ける刑事有責判決。
(ヌ)偽証及び偽誓。
(ル)盗及びその他の不名誉な私の不法行為。
(ヲ)俳優としての演枝。
(ワ)猛獣と戦うため、或いは拳闘のため雇われること。
(カ)市民の不誠実不信用な行動。訴訟による裁決を約して置きながら、その訴訟を回避し、娘の婚約をして置きながら破約し(後にはこの破約の自由は認められている)、安い利息で金を借りて、高い利息で回収するが如し。
(ヨ)自殺の未遂。
(タ)祖先の祭祀、祖先の墓を忽にすること。
(レ)親兄等の目上の者に対する敬虔義務を忽にすること。
(ソ)家長権の濫用。
(ツ)不道徳な結婚。例えば被解放者と生来自由人の結婚の如し。
(ネ)離婚権の濫用。
(ナ)土地その他一般財産の放置、悪化。
(ラ)不経済な贅沢、出鱈目な生活一般。
(ム)独身【筆者の追加】。
これ等の中、多数の場合は、法の制裁を受けて、刑事裁判に服するか、法務官の訴訟申立、訴訟代理に対する措置中に含まれている。ただ我々の注目をひくのは、(タ)以下の家族生活、経済生活に関する部分である。人法は祖先の祭祀や祖先の墓の維持に対して、これを強行したことはない。専ら国民の道義心に俟つたのである。人法が共和政時代に家長の権利を制限したのは、おそらく、息を三回売却したときに、彼に対する家父権の消滅を命ずる十二表法の規定(8)のみであろう。然るに、戸口総監の習俗裁判では、「主人も奴隷の懲戒に関して苛酷たるべきではなく、父も子供の行動に関する基準を越えて苛酷又は軟柔たるべきでなく、夫も妻たる女との共同生活に関して不当たるべき(9)」ではなく、従つて、カトーは白昼娘の面前で妻と接吻したManiliusを元老院より追放し(10)、紀元前四四三年「M. Valerius MaximusとC. Iunius Brutus Bubulcusは、戸口総監のとき、結婚のために娶つた処女を、なんら友人の諮問会を開かずして離婚したために、某Anniusを元老院から追放した(11)」。家長の開く家族裁判に於て、親族友人等を諮問会(consilium)に召集することは、法の命令ではないが、なお習俗の要請するところであつたわけである(12)。所有権にしても、法の面のみから見れば、その制限性、義務性は確かに薄いが(13)、習俗からの義務性は、土地の所有者に適当な維持耕作の義務を課し、「汚れるに任せ、一向に介意せず、耕しもせねば、きれいにもせず、自分の木及び葡萄樹をなげやりにして置くときは、刑罰がないわけではなく、戸口総監が必要であつた(14)」のである。死者の埋葬葬儀に対する贅沢禁止規定は十二表法に見えるが(15)、日常の生活で、高い家賃の家を借りたとか(16)、銀の器に大金を投じたとか(17)、食卓に山海の珍味を盛つたとか(18)、外国の香料を用いたとか(19)の行為を法律が禁止したことは、共和の末に至るまで、その例がない。結婚の自由も法はなんら束縛していないが、戸口総監は独身税とも称すべき一種の税をかけているのである(20)。かくの如くにして、法律上は家長権も所有権も無制限の絶対的支配権なる形をとり、日常の生活も自由に任せられていても、習俗から来る制限義務は、実際上は強く働いていたわけである。
(1) Jhering II S. 31 ff.(四号一七六頁以下).
(2) 一八六頁。
(3) 成文化は、私法の面に最も強い。これに比して刑法公法は弱い。Jhering II S. 45(四号一八四頁). 公法の領域に於ては、習俗は断然支配したことについて、Jhering II S. 272 ff.
(4) Jhering II S. 45 Anm. 26 b(四号一八九頁).
(5) Livius 4, 8. Jhering II S. 274 Anm. 428.
(6) 戸口総監の習俗支配(regere mores)について、Jhering II S. 50 ff.(五号一三〇頁以下); Mommsen, Staatsrecht II 1 S. 375 ff. Schmähling, Die Sittenaufsicht der Censoren, ein Beitrag zur Sittengeschichte der römischen Republik 1938 (dazu Kaser, Sav. Z. 59(1939)S. 614 ff.)は最新文献であるが、遺憾ながら参照ができない。我が国では、船田博士によつて、この方面の紹介はなされている。「古代羅馬法と近代個人主義」京城大学法学会論集一二冊二号、「法律思想史」一二三頁以下。
(7) Mommsen前掲S. 377 ff.
(8) 四表の三(末松謙澄訳二三八頁)。
(9) Dionysius 20, 13,(2).
(10) Plutarchus, Cato maior 17. 拙稿、国家四三巻一号八一頁註24。
(11) Valerius Maximus 2, 9, 2. 拙稿、国家四二巻一二号九八頁註3、四三巻一二号一二一頁。
(12) 拙稿、国家四二巻一二号一一八頁。
(13) 一八二頁。
(14) Gellius 4, 12.
(15) 一〇表の三以下(末松謙澄訳三〇七頁)。
(16) Velleius 2, 10; Valerius Maximus 9, 1, 4; Plinius, historia naturalis 17, 1, 3.
(17) Gellius 17, 21, 39; 4, 8, 7. その他多し。
(18) Plinius, h. n. 8, 51, 209; 8, 57, 223; 14, 14, 95; 36, 1, 4.
(19) Plinius, h. n. 13, 3, 24.
(20) Cicero, de legibus 3, 3, 7; Valerius Maximus 2, 9, 1; Festus v° uxorium. 拙稿、国家四三巻一二号一二七頁。
四 法規範独立後の他の規範との関係 (1)法の習俗に対する信頼 神法——それは比較的早く実効を失つたであろう——や習俗——それは長く後まで有効な社会規範であつた——を予定し、前提としていた法は、宗教心が旺盛である限り、社会道徳心が健全である限り、そのままでなんら不都合はなかつた。いな不都合がないのみならず、家族生活の如きものを愛と道徳、義理と人情の世界として、法の干渉をできるかぎり回避することができたことは、正にローマの家族生活の健全さを中外に誇る大きなもとになつている(1)。ローマの家母が自らを誇つたのも、外面的な法律上の地位ではなくて——法律上の地位はむしろ低いと云わねばならない——、内面的道徳的な尊敬に外ならなかつた(2)。そのような家に於ては、家長の有する生死の権(ius vitae necisque)と雖も、云わば伝家の宝刀である。すごく斬れるが容易に抜けるものでもなければ、濫りに振りかざさるべきものでもない。抜き得るときは、家長に託された国家刑罰権を発動させなければならないときとか、家の名誉と秩序を維持するためとかの最後の已むを得ない場合に限られる。歴史の数々はその跡を示している(3)。Brutusはその二子を王政復辟の陰謀の故に死刑に処した(4)(前五〇九年)。Spurius Cassiusは王権を羨望したため、一派の古典に従えば、己が父に殺されている(5)(前四八五年)。Aulus Fulvius Nobiliorはその子MarcusがCatilinaの陰謀に参加した故を以て、死に処したところ、他の家父は多くこの例に放つている(6)(前六三年)。そこには、「執政官の職務が子に対する刑罰執行の義務を負わしめたが故に一層顕著な課刑」に際して、「神の行為か野獣の行為か」と怪まれるまでに、「父の愛情を捨て去り、公的復讐を欠くよりはむしろ無子者を以て甘んずる(7)」父の愛情と公の義務との相剋があつた。Manlius Torquatusは、その子が敵との一騎打に勇名を馳せたが、厳粛なるべき父の軍令を破つたものとして、これを殺している(8)(前三四〇年)。ここにも「自然の上の父の愛を最高権軍令権の犠牲とした」馬稷を斬る涙がある(9)。M. Fabius Buetoはその子Numeriusを窃盗の故を以て死刑に処した(10)(前二二三—二一八年)。騎士Pontius Aufidianusは、「己が娘の処女性が奴隷の師Fannius Saturninusに凌辱されたのを知るや、罪ある奴隷を死刑を以て断じたのを以て足るとせず、己が娘を殺し、かくして娘をして恥ある婚礼を祝えなくするために、恐しい野辺の送を営み(11)」、P. Atilius Philiscusは、「己が娘が淫蕩の罪に汚れたが故に、これを殺した(12)」。ローマ人の考では、責あると否とを問わず、かくすることによつて、汚が潔められると考えたのである。このようにして、生死の権は恣意的な権でなかつた。もしもこの宝刀を抜くべからざる場合に抜いたとすれば、第一社会民衆の道徳心が承知しなかつた。「騎士某Erixoが己が息を鞭で殺したために、人民はフォールムでペン先で突き刺した。アウグストゥス・カエサルの権威が辛じて父達の汚れた手から、又子供達の汚れた手から、彼を取り去つた(13)」と云う話が伝わつている。かくの如くにして、法は習俗に自信を置き、それを予定して、極めて広い自由を許容した。従つて、法のみを取り離して見れば、「法はあたかも、どこでも最も鋭い尖端を突き出し、極端な理論を引き出し、法概念の暴君的なものを力づくで最も臆病な悟性に迫ることに喜びを見出しているよう(14)」であつたが、それは正に法の濫用に対しては習俗による監督に充分の自信があつて、「最も鋭い小刀が最良のものであり、そうして、その使用法を心得ている人々にはそれは安心して委ねることができるのであつて、濫用の可能性の故にそれを鈍くする必要はないという見解から出発」しているのである(15)。
(1) このような、「死せる法規を免れた自由な愛と道徳の領域」たり、「荒廃した領域に於ける新鮮なオアシス」たる家の事實的姿については、Jhering II S. 194 ff. なお拙稿、国家四二巻一一号一二一頁、一二号一〇二頁以下、四三巻一号七三頁以下、二号一一一頁以下参照。
(2) ローマの婦女の社会的地位が高かつたことにつき、拙稿、前掲四二巻一二号一〇二頁以下参照。
(3) 以下の史料につき、拙稿、前掲四二巻一一号一一一頁以下、四三巻一号七三頁以下。
(4) Livius 2, 5; Valerius Maximus 5, 8, 1
(5) Plinius, h. n. 34, 15; Valerius Maximus 5, 8, 2; Livius 2, 41; Dionysius 8, 79.
(6) Dio Cassius 37, 36.
(7) Livius 2, 5; Plutarchus, Publicola 6.
(8) Dionysius 8, 79.
(9) Cicero, de finibus 1, 7.
(10) Orosius, historiae contra paganos 4, 13.
(11) Valerius Maximus 6, 1, 3.
(12) Valerius Maximus 6, 1, 6.
(13) Seneca, de clementia 1, 4
(14) Mommsen, Geschichte I S. 157.
(15) Jhering I S. 83(一三冊三号一二六頁).
(2)法の規定事項 法が宗教から独立して、「宗教的な顧慮や要求に妨げられることなくして、私法の中の純粋に人間的なものを、最も純粋に、かつ最も完全に表現することができるようにな(1)」り、習俗から独立して、法自体の中に常に道徳的要素を取り入れて内攻状態を醸成したり、道徳を法の強制によつて達成しようとする愚を犯さずに済んだことは(2)、正に法概念の独自の存在を自覚せしめることとなり、法の国民となる基となる第一歩を踏み出したことになつた。法は何を規定すべきかを心得ていた。およそ生活の万事を法律化しようなどと夢思わなかつた。それは分化の当初からそうであつた。なるほど十二表法には、婦女が葬儀に当つて、悲しみの余り法外の慟哭をしたり、頬を掻きむしつたりするような行為を禁ずる規定があるが(3)、その規定がギリシャのソローン法より伝来したことが伝えられている如く(4)、ギリシャ法をそのまま採用したもので、本来ローマ的なものではない。事実ギリシャでは、プラトーでもアリストテレースでも、国民のあらゆる生活をば法を以て規定することを理想としているのである(5)。
(1) Jhering II S. 50(五号一三〇頁).
(2) Jhering II S. 26(三号一三九頁)「古ローマに於いては、法と道徳の峻厳な対立が刻み込まれていた。これローマ人が道徳の命令を、他の民族よりも軽視したがためと云つたようなわけではなく、ローマ人は他の多数民族に比して、一層明瞭に、自由な人間は善を善なるが故にのみ行うもので、強制されて行うことは欲しない、と云うことを感じていたからである」。
(3) 一〇表の四(末松謙澄訳三一二頁)。
(4) Cicero, de legibus 2, 23, 59.
(5) 船田享二「法律思想史」八二頁、九二頁。
(3)法の進出 宗教と習俗に期待できた間は、法は自己の領域に立て籠つていた。然しながら、時代の進むとともに、そのままでは済まなかつた。宗教心が衰えると、神の怒はなんの担保にもならない。啓蒙された人間にとつては、そんなものは「何でもない」ものになつてしまう(1)。習俗の担当者戸口総監も、税制の改革や軍制の変更により、その最たる職能を失い、共和政の最終の一世紀には、辛じて形式的影の如き存在を保つたに過ぎず(2)、習俗の維持者たる地位も保ち得なくなつた。而かも他方カルターゴーに対する勝利の後は、古来の健全な習俗は一路敗頽の途をたどり、諸々の皇帝、特にアウグストゥスはその建て直しに躍起となつたが、昔の如く、単なる道徳的なノータでは、いかんともなし得なくなつた。ここに於て、法の強制を俟つより外なくなつた。奴隷の虐待禁止の立法が出た。猛獣との遊び、遺棄、去勢、売娼、苛酷虐待等に関し幾多の法律や勅法が発せられ、コンスタンティーヌス帝の時代には奴隷の殺害は殺人罪までを構成した(3)。家父権も法上制限せられたが、その制限の過程は稍々ゆるやかであつた(4)。独身の弾圧は、今やアウグストゥスの婚姻出産奨励法(5)となつて現われた。奢侈贅沢の禁止については、宴会、食卓の費用を制限した紀元前八一年のスルラの奢侈法(lex Cornelia sumptuaria)が考えられる。
(1) Cicero, de officiis 3, 29, 104. 三四頁参照。
(2) Mommsen, Staatsrecht II 1 S. 336 ff.
(3) 拙著、上五〇頁。詳しくは船田享二、二巻六四頁参照。
(4) 拙著、下六四頁。詳しくは船田享二、四巻一一四頁以下参照。
(5) 拙著、下八七—八頁。
五 公法と私法の分化 法が宗教や道徳や習俗より独立するや、更に法内部に於て分化作用が行われた。ゲルマン法では、中世に至るまで公法と私法の分化が行われなかつたのに反し(1)、ローマに於ては、早期から分化を示していた。学者によつては、「苟も羅馬の学術の存在ありと言ひ得べき瞬間より既に」その「区別並に其の相互の関係が認証せられ」ていたとまで説いている(2)。然しながら、法学者は専ら私法に没頭し(3)、公法に対しては甚だ冷淡であつた。キケローも法学者が私法に没頭して、広い沃野の「国の法」(ius civitatis)を顧みない態度を難じて、「大きなことを云いながら、小つぽけなことに専心する(4)」と云つている。共和政後期に、国家法の著述をした者は、単なる政治家か、歴史家か、又は古代研究者に過ぎなかつた(5)。公法の領域に属する諸々の著書を著わしたCassius Heima, C. Sempronius Tuditanus, Iunius Gracchanus, L. Cincius, M. Terentius Varro等(6)々いずれも、Pomponiusの記す法学者のカテゴリーには入らず、僅かにTuberoが「公法私法に最も通ずる者(7)」として掲げられているに過ぎない。古典時代には、漸く二世紀を終る頃から、軍制論、国庫論、執政官、前執政官の職務論等の著書が散見し初めている(8)。何が故にかかる現象が生じたかは困難な問題である。おそらくは、その原因の一には、公法の領域は習俗慣行に属するものが多かつたこと(9)、他面私法は公法に比すれば、多分にテクニカルなものとして、素人判りのしない部分が多く、専門家を要するような事情もあつたであろう。
(1) Gierke, Grundzüge S. 179.
(2) 美濃部達吉訳「イェリネック人権宣言論外三篇」(昭和二十三年版)一六七頁。
(3) Cicero, de oratore 1, 48, 212 「もしも、実際いかなる者が法学者と名づけらるべきかについて質問せられるならば、自分は、私人が国家で用いるような法律と慣習について、解答するにも(respondendum)、訴訟するにも(agendum)、助力するにも(cavendum)通暁している者と云いたい」。この三種の活動につき八四頁参照。
(4) Cicero, de legibus 1, 4, 14.
(5) Krüger S. 52.
(6) Krüger S. 52; Kipp, Geschichte der Quellen S. 103--4; Schulz S. 19--20.
(7) D. 1, 2, 2, 46 Pomponius.
(8) Schulz S. 20 Anm. 43.
(9) Jhering II S. 274 ff.
古典法学者は「公法とはローマの国に関する法を云い、私法とは個人の利益に関する法を云う(1)」と云つた。ローマに於ては、国家と個人の間の中間の団体はあまり社会的生活に不可欠なものと考えられてはいなかつたので(2)、公法の面に於ては国家が、私法の面に於ては個人がその担当者として登場し、個人法(Individualrecht)でない私法なく、国家法でない社会法(Sozialrecht)はなかつた(3)。その結果、私法の個人主義的・自由主義的性格は当然の帰結であつた。これに反し、法全体を一の統一体と見るゲルマン人は、「隣り同志の取引関係から、国王と国民の信義関係に至るまで、あらゆる人間的関係を一様に包含する一種類の法(4)」を知つただけで、公法的関係にも私法的形式が侵入し、私法的関係も公法的関係に拘束せらていた。私法的関係には、個人と国家の中間の団体を通じて、社会法的要素が強く侵入して、その団体法主義を必然的に招来し、自由の制限もなくては済まされなかつた。
(1) D. 1, 1, 1, 2 Ulpianus.
(2) 一三六頁以下。
(3) Gierke I S. 27.
(4) 同S. 28.
第六章 法曹法
ドイツ法の民衆法(Volksrecht)に対して、ローマ法の法曹法(Juristenrecht)が指摘せられる(1)。そもそも、法の若い時代には、さきに記したが如く、あらゆる社会規範が混然たる一体をなして調和を保つていたが、そのような綜合規範は、そのありのままの姿で、直接民衆の精神にとけ込み、生々しい姿のままで、国民が意識し、国民民衆自体がこれを創造し、適用した。然しながら、法が発育するにつれて、他の文化要素と同じように、法を担当する特別の専門家が生まれ出て、彼等が生々しい素朴な法的慣行に対し、専門的知識を以て、保育と純化と完成に向つて努力する。そうした専門的法の通暁者は、健全な状態では常に民意を基盤としつつ、絶えずその上に法を運行することに努力するが、不健全な状態には、自己の属する階級なり身分なりの御用学とするに汲々たる場合も往々発生する(2)。法の独立化を早期に完成したローマ法は、又その当初から法の専門家を持つていた。そしてその専門家たる法学者が法の育成者となつて、遂には世界的法律文化を作り上げたのである。ローマ法とは、正に言葉に一文のかけ値のない法曹法であつた(3)。
(1) Gierke, Grundzüge S. 180.
(2) 久保正幡「ゲルマン法の象徴主義」国家六二巻三・四合併号九—一〇頁。
(3) 「ローマ法の根幹は、固有の市民法(proprium ius civile)が形成している。而してこの語は、法学者自身によつて創成せられた法曹法を指しているのである」。Ehrlich, Grundlegung der Soziologie des Rechts 1913 S. 209.
当初ローマに於て法の担当者であつたのは、神官団(collegium pontificum)であつた。彼等が解釈(interpretatio)なる名のもとに、十二表法の、息を三回売却すれば、最早彼は父の家父権に服しないと云う規定からして、家父権免除(emancipatio)とか、養子縁組(adoptio)のような行為を創設したのである。そのような時代には、一般の人民は法律裁判に関する知識を有しなかつた。然るにそのような状能はローマでは長続きはしなかつた。紀元前三一二年に戸口総監となつたAppius Claudiusの秘書Cn. Flaviusが法律訴訟(legis actiones)を編纂した書を窃み、訴訟の方式を周知せしめ、これが一般市民の意を得て、高官に就任し、その資格で法廷開廷日を記した暦をフォールムに公示したため、神官団の法律知識の独占が破れたという伝説がある。これは法律が一部貴族の秘密学たる状態を脱して独立の科学となり、平民も亦これに近づき得るに至つた経過を物語るものである。紀元前二五四年平民にして初めて神祇伯(pontifex maximus)となつたTiberius Coruncaniusは、法学教育に従事した最初の法学者たるの名誉まで贏ち得ている(1)。貴族と平民の階級闘争も一応終つて、法も全国民に開放せられることになつたが、建国七世紀の頃ともなれば、法は既に素人が取扱うには、余りにも専門化し、技術化し、法学者の援助なくしては、到底法生活の円滑な運びは困難となつていた。共和政法学者の仕事は、キケローによつて、agere, cavere, respondereの三種に分類せられている(2)。agereとは訴訟行為に関与することである。訴訟に必要な方式を組成することなどは、法学者の活動と関連を有するであろうが、訴訟のことは早くから弁護人の仕事となつているので(3)、これは法学者の余り大きな仕事ではない。従つて、キケローも往々他の個所ではこのagereを法学者の仕事から削除している(4)。cavereとは法律行為に関与する行為である。法が複雑化専門化したときに、法学者が云わば市民の「公有物」となつて、無償の奉仕をしたことが、法と実生活との間隙を残さずに済み、国民からも感謝の的となつたことは、さきに述べたところである(5)。respondereとは諮問に対する解答である。諮問者は、政務官でも、審判人でも、私人ででもある。これがローマ法の発展に一番大きな貢献をなし、又法学者をして栄誉あらしめる所以でもあつたことも、前に一言した(6)。而してこの最後のrespondereの活動が、帝政期には、法学者の最大最良の活動領域となり、アウグストゥスが「皇帝の権威に基づいて法を解答する権」(ius respondendi ex auctoritate principis)なる制度を発案して、法学者の権威を弥が上にも高め、遂にハドリアーヌス帝の時代には、解答権を有する法学者の意見が一致するときは、法律と同一効力を有するまでに至つた(7)。かくして古典時代には幾多錚々たる法学者が輩出し、世界的法律文化が完成したのである。ローマをして法の国たらしめた所以は、正しく法曹法であつた。民会の制定した法律でも、元老院議決でも、法務官の告示でも、勅法(8)でも、最後に慣習法でもなかつた。法律や元老院議決や告示の提議者発布者が法学者に属しなければ、法学者の意見は事実必らず聴かねばならなかつたであろう。裁判にたずさわる審判人とても同一であつた。皇帝固より然り。これ等には必らず蔭の女房役法学者が居た。最後に慣習法こそは、民衆法の権化であつても、法曹法のローマでは、それ自体の名目でそれに大きな力が与えられているわけではない。けだし、ローマに於ては、法生活の自然的なありのままの姿、生々しい国民的法意識そのものが、直ちに慣習法として効力をするのではなく、法学者なり、法務官なりが取り上げて、篩にかけ、エラボレイトして、初めて法としての効力を認められたのであつて、慣習法の法源性の問題は、法務官法学者の活動の法源性の問題に変形せられているからである(9)。従つて、古典法学者はこの慣習法自体については特別の理論を開拓していない(10)。Gaiusにも、慣習法の法源性は説明せられていないのである(11)。又効力も、古典時代には、成文法を補充する力はあつても、改廃する力はなかつた。然るに、ビザンチン期に至つて、法学者の活動が頓に衰え、法と実生活との間に大き間隙ができ、その間隙は当時の有力な法源たる勅法を以てするも埋めるに由なく、ここに慣習法に当然あるべき地位を認め、慣習法の成文法改廃力を承認し(12)、慣習法の理論が、法学者の活動の理論内に吸収せられているような状態が解消した。
(1) 拙著、上一四頁。
(2) Cicero, de oratore 1, 48, 212(八〇頁註2). Krüger S. 53.
(3) 一四頁。
(4) Cicero, de officiis 2, 19, 65; de legibus 1, 4, 14; 1, 5, 17; pro Murena 9, 19.
(5) 一八頁。
(6) 二一頁。
(7) 拙著、上一七頁。
(8) Bruns-Lenel S. 356--7.
(9) 拙著、上八〇頁。
(10) 船田享二「羅馬慣習法理論考」京城帝国大学法学会論集一五冊一号。
(11) 一・二
(12) 船田享二「羅馬慣習法理論続稿」同一五冊三・四号、同「羅馬慣習法理論考」法律時報一六巻三号。
第七章 現実実際実利主義
一 ローマ文化に於ける現実実際実利主義 ギリシャの児童はホメーロスを朗誦したが、ローマの児童は十二表法を必唱歌として暗誦した(1)。「ムーサはギリシャ人に天才と口を円くして語る術を与えたが、ローマの少年は長い計算でアースを百分することを学ぶ(2)」。アレキサンダー大帝は「ホメーロスのアキルレウスについて考えた為に眠り得なかつたのに対して」、カエサルは、「その眠られぬ夜々をばラテン語の名詞や動詞の変化に心を潜めた(3)」。ギリシャ人は場所の位置を定めるのに星を頼りにしたが、ローマ人は道路標識となる軍石を頼りにした(4)。「ギリシャでは有用なものは麗しいが、イタリアでは麗しいものさえ有用である(5)」。げに、ローマ人は理論よりは実際、科学よりは操作、思弁よりは実行、空想よりは現実、推理よりは経験、非合理精神よりは合理的精神を尊ぶ。物の考方、行動の仕方には、常に目的があり、魂胆があり、打算があり、窮極的には実利利益を考える。学問のための学問、認識のための認識と云う態度は考え得られないし(6)、ひたすら美のためにのみ精進し、神を恐れるが故にのみ信ずると云う心情がない。ローマ人自らが優秀を誇るもの、不得手を告白するものが、なんとこうしたローマ人の性格に合していることか。キケローの誇る(7)第一は、「生活の慣習及び制度、家庭及び家族の事柄」。これをば「完全に、ギリシャ人より遥かによく、遥かに称讃に値する方法で気を配つている」と誇るはキケロー。「ローマ人の中何人が妻を饗宴に伴うことを恥としよう。何人の妻が家の首位を占め、繁い交際に姿を現わさないであろうか。ギリシャに於てはいたくこれと異る。近親の饗宴でなければ列することなく、近親者でなければ近づくことなきギュナイコーニーティスと称する家宅の奥深い所でなければ坐することはない(8)」とギリシャの家母に優るローマの家母の社会的地位を誇るはコルネーリウス・ネポス。第二は国家と法律制度。第三は軍事。これは既に冒頭に述べた(9)。第四は重々しさ(gravitas)、恒常(constantia)、精神の雄大さ(magnitudo animi)、正直(probitas)、信義(fides)の徳。これらの実践道徳は、「我々の古人に匹敵する民族はない」と云う。又他の者が誇るは土木工事。フロンティーヌスは云う、「こんなに沢山な水を運ぶこれほど必要な工事と、怠けもののピラミッド(pyramidae otiosae)や、或いは他のギリシャ人の作つたぶきつちよではあるが、評判で有名な仕事(certa inertia sed fama celebrata opera Graecorum)とを比較して見よ(10)」と。反対にその及ばないことの遠きを率直に告白するは、第一に芸術。「占領せられた筈のギリシャが野蛮な勝利者を占領し、諸々の芸術を田舎のラティウムに齎した(11)」とのホラーティウスの言は余りにも有名である。キケローも云う、「我々が追求したものは、ギリシャの記録や学校(disciplina)で我々に伝えられた学問や芸術によつて、我々が取得したものであると云うことを語るのに私はもうなんら恥しくは思わない(12)」と。当初ローマでは詩人は余り名誉がられず、詩人を県地へ連れて行つた某Marcusは、恥知らずとカトーの叱りを受けていたと云う(13)。劇でも俳優は後代まで卑しい職業とせられ、高利貸や売淫業者とともに、不名誉者の範疇に入り、訴訟上の制限を受けていた(14)。絵画の如きも、「これを職業とするが如きは己を賎しくするものとして、他の貴族から白眼視された。かかる偏見は帝政時代となるまでは脱け切れなかつたので、共和政時代の画家は殆んど皆希臘系の外人であつた(15)」と云う。従つて、芸術の面で「野蛮な勝利者」が一言なく屈したのは余りに当然であつた。第二は哲学科学。「哲学はこの今の時代に至るまで休止していて、ラテン文字で成る光彩陸離たるなんらの作品も持たなかつた(16)」。かく記すキケローも、哲学の領域では、自らの著書がギリシャ哲学者のそれの「模写」に過ぎず、「自分から出たものは言葉の選択」のみと告白する(17)。そもそも哲学なるものは、ローマ人の性格に合う学問ではなかつた(18)。それは教養のない人間や、金に抜目のない階級——ペトローニウスの主人公トリマルキオは自分の墓石に「細々《ホソボソ》の資より始めて大となり、三〇万セーステルティウスを遺したるも、哲学者の言はかつて聴きたることなかりき(19)」と記させた——からだけでなく、教養ある士からも無益無用の業とされていた。下衣なしでマントを被り、長い髪と長い髯を貯えた哲学者の姿と云うものは、一般には軽蔑の対象であつたようである。このような不得手な芸術や哲学や科学の領域では、ギリシャの後塵を拝しながらくつついて行つても、ローマ的な功利主義的性格が浸潤して、ギリシャのそれとはおよそ異つたものになる。詩は「宴会に当つて、客が有名な人の徳について、笛に合せて歌うのが」昔の習わしであつた(20)。有力な人の徳についての詩! このような国家に役立てるための手段としての詩は、後代の詩人にも共通している。Tibullus, Propertiusを経てVergiliusに至つて最高峰に到達した詩才は、かつての古い時代の事実や信仰や伝統の中に、真にローマ的なものを見、国民感惰を喚起し、愛国心を鼓吹する意図に充ちている(21)。「詩人は益を与えることを欲する(22)」、美に魅せられ、真に泣き、霊にうたれるがままに、目的も意図もなく、自由奔放の詩才を駆使することは、「詩作の業」(ars poetica)ではないのである。神話(23)に於ても、国家的、道徳的、実効的な傾向が断然強い。松村博士によれば、ギリシャ神話が、「神々に対する依存崇敬の念や、神々が支配管掌すると信ぜられた自然界人文界の諸々の事象の成立、起源に対する知力的究明から解放されて、のびのびと詩的想像を駆使し、神々の生活行動を描出せんとする文学的叙述の心理」、「神々を描かんとする心理」に支配せられたのに対し、ローマ神話は、「神々が持つと信ぜられた霊能に対する観念が意識の大部分を占め、神々の意志を動かして人間に有利に発動させようとする宗教的叙述の心理」、「神々を動かさんとする心理」に充たされている。国家の安泰や、人間の幸福を求めて神話しているところ、神々が恋愛し、嫉妬し、闘争し、遊楽することなどは何の意味もない。神話に選ばれている「神々に関する観念及び神々に対する民衆の態度も国家的・道徳的・実効的である」。抽象化せられた神々も、協和(concordia)、仁慈(clementia)、敬虔(pietas)、希望(spes)、幸福(felicitas)、自由(libertas)、名誉(honos)、勇気(virtus)、健康(salus)、平和(pax)、力(ops)、信義(fides)等、政治、道徳、実生活に関係し、これ等の徳を神格化することによつて、その目的とするところの国家、政治、道徳の運営向上の最良の手段としたのである。ギリシャの抽象神が、快楽、喜悦、美声、名声、喜劇精神、悲劇精神、歓喜、愛らしさ、舞踊愛好等、快楽、遊楽、文芸に関していて、神話する心情の根本的差異が認められる。絵画(24)に於ても、当初は国家意識的動機が強い。「共和政時代を通じてローマ人が最も喜び、最も感激した種類の絵画は、歴史的、記念的題材のもので、‥‥その頃ローマの貴族で征戦に輝かしき功を立てたものは其の成績を一般公衆に報告し、又、其の勲功を誇示し、又、其の栄誉を不朽にする為に、或はそれを神殿の壁に描かせ、或は別に絵を作らせて、之を公衆に展観し、又は、自邸のタブリヌムに飾り、或は又、凱旋式の際、将軍の後に続く列中に加ヘて、供奉員をして捧持せしむるといつた風習があつた」。彫刻(25)の面にも、同一の意図が明白である。「蛮族の敗北は、ローマ彫刻家の最も多く選択した作因の一とな」り、「ローマ兵と蛮族との白兵戦、囚はれて縛されてゐる蛮族の兵士」等は、「浮彫として石棺や廟や凱旋門に表現され、ローマ時代に栄えた歴史彫刻の重要な一分野となつた」。「国民芸術を創生せしめるためのローマ人の新しい熱意は、彼等の国家的光栄と信ずる地上の歴史的現実を永遠に造形的に記念する方向に傾けられたのであつた」。宗教彫刻は歴史彫刻に比して、ローマ人の新しい熱意をわきたたせたものではない。ただ「神々への犠牲をモチーフとした作品」には、「ローマの国民的芸術としての性格を最もよく示すもの」と森口多里氏は主張せられる。「神々そのものの表現ではなく、神々に対する信仰の実際的な効験を象徴した作品」である。「神話的主題の浮彫を叙事詩の美に憧れるギリシャ的性格とすれば、祭儀的主題の浮彫は現実に即したローマ的性格で、ここでの主役は地上の元帥である」。「実際を重んずるローマ人の気稟が、神話の世界への空想の作用よりも、犠牲奉献といふ現実が齎らす効験への信頼にモチーフの実感を見出したであらうことを、これらの装飾浮彫は想像させる」のである。これ等文学芸術を通じて、ローマ人に喜ばれたものにレアリズムがある。ウェルギリウスの田園詩がそうであつた。「彼の芸術の創造性は、レアリテを直接つかんでいる感覚がギリシャ詩の高級な伝統と、ローマのレアリズムがヘレニズムの理想主義と、深遠比類のない位結びついていること」にあると云う(26)。真に迫る精巧丹念な写実主義は、絵画にも彫刻にも喜ばれた。精確や自然主義は疑もなくへレニズム芸術に於て高度の発展を示した性格であるが、ローマに於ても同様、いなそれ以上に喜ばれた(27)。青銅の牛を本物の牛と誤つて、他の牛と一緒に連れて行こうとしたり、子牛がその乳を飲もうとして飲めず遂に死亡してしまつたと云うミュロンの噺や、一方が描いた葡萄の絵に鳥が飛んで来ると、他方が描かれた幕を開けて絵を見せろと云つたパラシオスとゼウクシスの絵競争の噺は、固よりギリシャの噺であるが(28)、これを伝えて喜ぶ者もローマ人であつた。
科学や学問の領域について、グルニエの語るところは示唆に富む。「彼等は彼等の間で大きな発展を遂げていた社会的利益の原理によつて捕われていた。‥‥功利主義とても、疑もなく、必然的に認識への熱意を窒息せしめるものではない。‥‥が然し、それは精神の生活を精神の領分に属しない法則に従わせようとする。それは精神の生活から自治を奪い、思想の実際的結果と効果に性急に関心を持つ。それは科学の中に行動を予見し、未知のものの探求を既存のものの尊敬へ従属せしめる。然し認識は完全な自由を要求する。現実《レアリテ》は認識にとつては、出発点であつて、到達点ではない。認識は抽象によつて、特別な事実と配列から、一般的理念《イデ》へと上進する。理念は認識にとつては、少くともギリシャ人のもとでは、最高の現実となつた。理念の世界では、何物とても推理の論理を妨ぐべきではない。科学は真理しか介意せず、市〔民生活〕の中で開くことあるべき裂目に心配はしない。ローマ人は、これに反して、この裂目に懸念を持つた。彼は感覚的なもの、具体的なものに執着し、抽象の中ではしつくりした気持にはなれなかつた。彼は推理の中で躊躇し、その経験が彼にとつて伝統と衝突するに違いないと見えるやいなや、道を変じてしまつた。彼は純粋理性を容れなかつた。彼は何時迄も実践理性に執着していた(29)」と。数学のような純粋な学問でも、なんら捕えられることなく、利害を超越して、ただこれ論理を走らせると云う態度は採らない。キケローは云う、「彼等(ギリシャ人)の間では、幾何学が最高の栄誉であつた。従つて数学ほど有名なものはなかつた。が我々は測定の効用でこの術の限界をうつてしまつた(30)」と。測定勘定の実用で数学の生命は尽きる! 医学に於ては、アレキサンドリアに於て生態解剖をも敢て辞しなかつた理論生理学派と、経験を基礎とする治療派が争つていたのを妥協せしめ(31)、建築学に於て、理論と実際を調和せしめたことは(32)、別に怪むべきことではないとして、思想や哲学の領域に於ても、妥協と折衷で終始し、その論理的主張を最後まで貫き通したものがほとんど存しないのは、ローマの面目を躍如たらしめている。その適例はセネカに見られる。彼は云わばZenoとEpicurusの道徳を一つに結合した人である。而かも、一方は理想主義より、他方は物質主義より出発しているのである! 唯一の例外はLucretiusであろうが、そうした徹底振りはむしろ変人の哲学にしか見えなかつた。彼は一部では気狂とされているのである(33)。最後に歴史を一瞥しよう。ここには又、ためにする意図目的が盛に働いている。老カトーが起源論(origines)を書いたのは、子の教育のためであつた。Fabius Victorがローマ史を編纂したのは、ファビア氏の名声を高めんがためであつた。カエサルのガリア戦記は自己弁護のためであり、Sallustiusの書は、いずれも貴族の傲慢に対する反抗心の表現である。リーウィウスのローマ史は、一部の党略ではなく、全ローマの国民のために、古ローマの偉大さを讃美し、世界的使命を跡づけようとする道徳的愛国的精神に燃えたつている点では、正に歴史に於けるウェルギリウスである(34)。トゥーキディデースやポリビウスの如きギリシャ史家が、一切の感情と考慮を排斥して、冷徹そのもののような態度で、客観的公正に史実を叙述し、それに厳正な批判を加えようとする態度は、ローマ史家には全く見られない(35)。
(1) 五頁。
(2) Horatius, de arte poetica 323 ss.
(3) Mommsen, Geschichte III S. 462. 亀井高孝「古代ローマの文化」日伊文化研究九号二八頁。
(4) Grenier p. 390.
(5) ``En Grèco, l'utile est beau; en Italic le beau même est utile''. Grenierの書に対するBerrの序文p. XI.
(6) Berrの序文p. X. これに対立するギリシャについて、高津春繁「古典ギリシャ」六一頁。
(7) Cicero, Tusculanae disputationes 1, 1.
(8) Cornerius Nepos, vitae praefatio. 拙稿、国家四二巻一二号一〇四頁註6参照。
(9) 一頁以下。
(10) Frontinus, de aquaeductu 1, 16.
(11) Horatius, epistulae 2, 1, 156: Graecia capta ferum victorem cepit et artes intulit agresti Latio.
(12) Cicero, ad Quintum 1, 1, 28.
(13) Cicero, Tuscul. disp. 1, 2, 3.
(14) 拙著、上六〇頁。
(15) 森田亀之助「古代ローマの絵画」日伊文化研究九号七八頁。
(16) Cicero, Tuscul. disp. 1, 3, 5.
(17) 船田享二「法律思想史」一〇七頁。
(18) Friedländer IV S. 301 ff.
(19) Petronius, Satyricon 71.
(20) Cicero, Tuscul. disp. 1, 2, 3. その他Grenier p. 132.
(21) Grenier p. 251.
(22) Horatius, de arte poetica 333: aut prodesse volunt delectare poetae.
(23) 松村武雄「伊太利神話の点描」日伊文化研究九号一六頁以下による。
(24) 森田亀之助「古代ローマの絵画」同七八頁以下による。
(25) 森口多里「装飾彫刻のローマ的性格」同五二頁以下による。
(26) Grenier p. 359.
(27) Grenier p. 306.
(28) 高津春繁「古典ギリシャ」一五九頁参照。
(29) Grenier p. 475--6.
(30) Cicero, Tuscul. disp. 1, 2, 5.
(31)(32) Grenier p. 240--1.
(33) Grenier p. 476.
(34) Grenier p. 393 ss.
(35) ギリシャ史家の学風について、高津春繁、前掲一七一頁。
こうした性格のローマ人のローマ法は、その一般的性格にふさわしい特徴を示している。
二 法に於ける実利実用の意識 第一に、ローマ人は実利実用(utilitas)を離れた法などは到底考えることができない。法を考えるとき、常にutilitasの観念が脳裡に浮んでいた。キケローが十二表法を誇つたのは、「権威の重さ」と「利用の豊さ」(utilitatis ubertas)(1)であつた。法務官法を定義するにも、「法務官法とは、法務官が公の利益のため(propter utilitatem publicam)、市民法を援助補充改廃せんがために輸入した法である(2)」とPapinianusは云つた。私法に対しても、それをば「個人の利益に関する」(ad utilitatem singulorum pertinet)(3)法とUlpianusは説明した。
(1) Cicero, de oratore 1, 44, 195. 三頁註1参照。
(2) D. 1, 1, 7, 1 Papinianus.
(3) D. 1, 1, 1, 2 Ulpianus. 八一頁参照。
三 法哲学に於ける非創造性 第二に、法の制定運行に対して、独特の天分を発揮したローマ法学者も、事法の根本問題、法哲学の領分となると、およそ独創力がなく、全くギリシャ人の弟子の地位から一歩も出ない。固より法の国の法学者が、これ等の問題を回避することはできなかつた(1)。Celsusは「法とは善及び公平の術である(2)」と定義し、法の理念としては正義(iustitia)が要請せられ、Ulpianusはこれを、「各人にその権利を与える恒常不断の意思である(3)」と説明し、法の玄想(iuris praecepta)には、「正直に生活し、他人を害せず、各人にその分を与えること(4)」の三を掲げ、法律学(iurisprudentia)をば、「神事及び人事の知識、正及び不正の通暁(5)」と定義しているが、いずれもギリシャ思想の翻訳乃至暗示に基づくものであつて、根本に於て、ローマの独創に帰すべきものがない。即ち正義の定義は、キケローでは、「正義とは公共の福祉を保存して、各人に彼の威厳を与える精神の在り方である(6)」となつているが、「精神の在り方」(habitus animi)とは、ἕξις ψυχῆςの、「各人に彼の威厳を与える」(suam cuique tribuens dignitatem)とは、ἀπονεμητικὴ τῆς ἀξίας ἑκάστῳの文字通りのラテン訳であり(7)、法学者は、「精神の在り方」に代えて、意思(voluntas)を、威厳に代えて権利(ius)を置きかえているだけであるが、正義の徳が同時に理(λόγος, ratio)であり、実力(δύναμις, facultas)であり、意思(προαίρεσις, voluntas)であり(8)、この徳が、いかなる場合にも、「全生涯を通じて」実行せられなければならない恒常不断性を備えていなければならないことも、ギリシャ人、特にストア学派の主張するところである(9)。法の玄想たる「正直に生活する」(honeste vivere)とは、τὸ καλῶς ζῆνの文字通りの翻訳であつて、特にストア学派の明白に主張するところ、「他人を害せず」とは、正義が全然他人に関係する徳なることを宣明するストア哲学の教——彼等の主張では、自己自身に対する不正はあり得ない——の反響であり、「各人に彼の権利を与える」とは、云うまでもなく、ギリシャ思想界通有の配分的正義の思想である(10)。法律学の定義とても、「人事及び神事の知識」が、「正及び不正の通暁」の前提要件の関係に立つていることは、Sennの明らかとしたところであるが(11)、暁覚(sapientia, σοφία)の徳が神事及び人事の知識に存することは、ピータゴラース及びゼーノーの唱えているところで、プルータルクスも「而して一方ストア学派は、暁覚は神事及び人事の知識であると云つた」と記して居り(12)、「聡明」(prudentia, φρόνησις)の徳が正及び不正の通暁に存することも、ピータゴラース学派及びストア学派の一般的主張で、例えば、ゼーノーは、「聡明とは悪及び善及び善悪いずれにも属しないものの認識である」、「善徳の各々は、自己特有の問題に関して特色づけられる。‥‥例えば、聡明は為すべきこと及び為すべからざること、いずれにも属しないことに関して然り」と称して居り(13)、而して為すべきことは善であり、正義の立場よりしては正であり、為すべからざることは悪であり、正義の立場よりすれば不正であるから(14)、善悪、為すべきもの為すべからざるものは、正不正に繋る観念である。更にこの暁覚と聡明との密接な関係もピータゴラース学派によつて主張せられている(15)。以上の限度では、全然ギリシャ思想を越える何物でもない。ただ聡明の徳を法に応用して、「法の聡明」(iuris prudentia)即ち「法律学」なる観念を作つて、これを暁覚と聡明の一般的関係にもあてはめたところに、正にローマ人の特色があり(16)、そうした法に於ける聡明さは、ローマの古法学者(veteres)も有していたと主張し、これ等の学者の有していた知識が即ち神事及び人事の知識であると説明して、ギリシャ人がただ抽象的に取り扱つていたものに具体的ローマ的内容を盛つたところに(17)、ローマ人の実際的なセンスが現われているのである。
法理学的内容を有する他の問題、即ち自然法(ius naturale)の観念も、周知の如く、ギリシャからの借物である(18)。ただギリシャの観念的思弁的な自然法概念を、現実的実証的な万民法(ius gentium)の理論的基礎づけに取り入れようとしたところに、同じく実際的なローマ人の特色がうかがわれるのである(19)。
(1) 拙著、上一九—二〇頁。
(2) D. 1, 1, 1, pr. Ulpianus: ius est ars boni et aequi.
(3) D. 1, 1, 10, pr. Ulpianus: iustitia est constans et perpetua voluntas ius suum cuique tribuendi.
(4) D. 1, 1, 10, 1 Ulpianus: honeste vivere, alterum non laedere, suum cuique tribuere.
(5) D. 1, 1, 10, 2 Ulpianus: iurisprudentia est divinarum atque humanarum rerum notitia, iusti atque iniusti scientia.
(6) Cicero, de inventione 2, 53, 160: iustitia est habitus animi, communi utilitate conservata, suam cuique tribuens dignitatem.
(7) Senn, De la justice et du droit 1927 p. 10, 19.
(8) 同p. 12.
(9) 従つて、Schulz S. 58 Anm. 9がconstans et perpetua を以て非ギリシャ的、純ローマ的と解するには、疑問が持たれる。
(10) Senn p. 41 ss.
(11) Senn, Les origines de la notion de jurisprudence 1926. 船田享二「法律学といふ名称の起源について」法律学研究、二四巻五号。
(12) Senn, Les origines p. 12.
(13) 同p. 18--19.
(14) 同p. 27.
(15) 同p. 16.
(16) 船田享二、前掲九五頁以下。
(17) Senn p. 31 ss.
(18) 拙著、上八頁。この点に関する船田博士の幾多の研究は同所参照。
(19) 船田享二「法律思想史」一四八頁、国家三六巻八号五九頁以下。
四 法の彫塑性に於ける非象徴性 第三に、ゲルマン法の「法に於ける詩」(Poesie im Recht)が指摘せられ得るならば(1)、ローマ法に於ける法の彫塑性は散文的で(2)、法の外部的面貌はどこまでも、事務的、論理的、合理的な精神に充ちている。その眼が「天空が穹窿を形造り宇宙が屹立し風が吹きめぐり水が海に注ぎ火が燃え大地が青み大鷹が良い春の日を飛び続けて尚その両翼の下に風のある限りに及び、無限に偉大なる神秘に注がれ」る(3)、夢と詩のロマンティカーたるゲルマン人が、種々の象徴物や、儀式的、時には芝居気たつぷりな象徴的所作や、身振りを用いて、法律行為を締結したり、法律的に意義ある行為を実行し、詩的な文学的な、時にはユーモラスな表現句を以て、その意思表示や法規法格言を表現している(4)のに反し、現実的実際的なローマには、そうしたものがないではないが、一般的に云つて、その数は多くはなく、又単なる習俗的慣行に止まつて、法律的要件にまでのし上つている場合は、むしろ少いと云つてよい。例えば(5)、宣戦の布告には先端を焼いた槍(hasta praeusta)を敵地に投入した(6)。固より戦闘開始のしるしである。死刑の執行に際しては、執行を命ずる政務官は着物を裏返しにした(7)。一種の縁起をかついだものか。奴隷が解放せられたり(8)、敵地から帰還した場合(9)には、帽子(pileus)を被つた。次の剃髪とも関係があると云う。又奴隷が解放せられたときや(10)、刑事裁判で免訴の判決を受けたときは(11)、頭を剃つた。従前の地位と生活から断絶するしるしである。奴隷の解放には、更に解放主人が奴隷の横面をはつて、ぐるぐる引き廻した後、手から放つと云う象徴的儀式がある(12)。拳打はそれまでは奴隷の状態にあるを示し、引き廻して放つは奴隷より自由人となつたことを示す。時効を中断する場合には、小枝を折つた(13)。大きくなろうとするのを阻止する意である。新築工事に異議を述べるときは、小石を投入した(14)(iactus lapilli)。訴訟開始のしるしである。結婚に際しては、花嫁と花婿は右手と右手を合せた(15)(dextrarum iunctio)。夫婦の結合を象徴する。相続人は面を被つた(16)。面(persona)を被ることによつて、相続人は死者を代表したのである。然しながら、これ等の場合に、何が法的要件とせられたであろうか。原始アリアン法制の名残と云うべく、又神法の領域に長く残されていた国際法上の慣行たる槍の投入(17)はここでは措こう。奴隷の解放にも、婚姻の締結にも、相続の承継にも、時効の中断にも、法学者が一切これ等の行為については語らないことは、ただ習俗上の行為であつたからに外ならない。正にモムゼンも云つた如く、そのような単なる慣行が、ローマではとくの昔に法律的には重要性を失つて、意思の完全純粋な表現のみが、必要にして充分なものとなつたのは、宗教からあらゆる譬喩も擬人化も失せ去つたのと好一対である(18)。ただ新築工事禁止の通告に当つて行われる小石の投入は、法学者が頻りに説いていて、少しく問題を残すが、それでも果して法律的要件であつたか疑問である。古い神聖金による法律訴訟(legis actio sacramento)やmancipatioの如きは、一見象徴的に見えるが、実は過去の必要的行為の遺物に過ぎない(19)。即ち前者に於ては、法務官の面前で、原告と被告が仮装闘争を行うが(20)、これは過去の自力救済時代に実際行われたものが、後代まで残つているのであつて、当事者の争を象徴するために、意識的意図的に殊更作られたものではない。後者も、譲受人が目的物に手を触れ、自己の有なること、而して銅と銅の衡を以て買わるべきことを主張する言明を為した後、銅片を以て衡を打ち、該銅片を相手方譲渡人に交附する手続で行われているが(21)、当初現実売買であつて、而かも貨幣が未だ鋳造せられていなかつた時代に、実際に銅を衡つていた時代の実質的必要物、必要行為が幾分変形しているに過ぎないのである。象徴に利用せられる目的物も、刑罰権を象徴する槍、刀(22)、所有権を象徴する槍(23)、家母の地位を象徴する鍵(24)、不可侵を象徴する聖草(25)(sagmina)、神聖を象徴する牡羊(26)、信義を象徴する右手(27)、信頼を象徴する指輪(28)、土地を象徴する草(29)土塊(30)等も具えるが、これも亦法外のものが少くない。法律文については、キケローはその少年時代に十二表法を必唱歌として暗誦したと云つていて(31)、或いは韻律をふんだような文言もあつたかと想像されるが(32)、同法の現存物に徴するときは、殆んどそのようなものは発見せられていない(33)。法律行為の文言にせよ、法律の文言にせよ、徹底的に散文的、合理的である。今追放を例に採つて、ローマ法とゲルマン法を対立すれば、ゲルマンに於ては、ジッペの所属員たる地位を剥奪する放氏(Entsippung)を実行するには、ジッペを離れる者が、棒を頭上で折つて四方に投げると云うジッペの親族関係を断絶する象徴行為を行つたが(34)、ローマに於ては、その国籍を奪つて、追放に処することをば、水と火を使用することを禁止して、ローマに於て生活することを許さないと云う意味の「水と火の禁止」(aquae et ignis interdictio)と云う極めて世俗的現実的言葉を用いているのである(35)。
(1) Grimm, Von der Poesie im Recht, Zeitschrift für die geschichtliche Rechtswissenschaft 2(1816)S. 25 ff.
(2) Jhering II S. 16(三号一三一頁).
(3) 船田享二「法律思想史」一九九—二〇〇頁。
(4) 久保正幡「ゲルマン法の象徴主義」国家六二巻三・四合併号、六号、八号。
(5) Jhering II S. 564 ff.
(6) 一二八頁。
(7) Seneca, de ira 1, 16.
(8) servos vocare ad pileum(奴隷を帽子にまで呼ぶ). Seneca, epistulae 47, 18; Suetonius, Tiberius 4. 通常女神Feroniaを証人として、同神社内で行われる。Servius ad Aeneidem 8, 564. 拙稿、国家四三巻五号九七頁註5 6参照。
(9) Livius 30, 45; 34, 52; Valerius Maximus 5, 2, 5 et 6.
(10) Appianus, Mithridates 2; Servius(註8). 拙稿、前掲参照。
(11) Martialis 2, 74. Friedländer I S. 330.
(12) Isidorus 9, 4, 48. 拙稿、前掲九二頁註9参照。
(13) Cicero, de oratore 3, 28, 110.
(14) D. 8, 5, 6, 1 Ulpianus; D. 39, 1, 5, 10 Ulpianus; D. 43, 24, 1, 6 Ulpianus; D. 43, 24, 20, 1 Paulus.
(15) Servius ad Aeneidem 4, 103. 拙稿、四三巻一二号註8参照。
(16) Macrobius 2, 7: heredis flectus sub persona risus est (相続人の涙はお面の下の笑い).
(17) Mommsen, Geschichte I S. 155; Mitteis S. 23 Anm. 1.
(18) Mommsen, Geschichte I S. 155.
(19) Jhering II S. 16(三号一三二頁).
(20) Gaius 4, 16
(21) Gaius 1, 119
(22) 政務官の侍者(lictor)は鞭の束と斧を担いでいる。刑事審判人(iudex quaestionis)は剣を手に持つ。
(23) Gaius 4, 16
(24) Cicero, orationes Philippicae 2, 28, 69. 拙稿、国家四三巻一二号一二三頁。ゲルマン法及び中国法の同一現象、久保正幡、前掲六号三六頁、仁井出陞「中国法史に於ける主婦の地位と鍵」国家六一巻四号、五号。
(25) ローマの使節fetialisはこれを持つ。
(26) 私人間に友好関係を結ぶときには、友好四角板(tessara hospitalis)を交附するが、そこには牝羊の頭が描かれている。Mitteis S. 23 Anm. 1.
(27) Livius 23, 9, 3. 拙稿、前掲一〇四頁註9参照。
(28) 従つて、手附にも用いられ、選定相続人にも交附せられる。Jhering II S. 565.
(29) herba pura. 原始アリアンの遺制?Mommsen, Geschichte I S. 155.
(30) Gaius 4, 17
(31) 五頁。
(32) キケローの文よりして、Ritschlは韻をふんでいたと主張するが、通説ではない。Krüger S. 11 Anm. 16参照。
(33) 私の見る限り、六表の一(末松謙澄訳二五三頁)の「ネクスム及びマンキピウム(=マンキパティオ)を為したるときは、言葉を以て言明したるが如く、その如く法たるべし」(cum nexum faciet mancipiumque, uti lingua nuncupassit, ita ius esto)中、mancipatioを殊更mancipiumと云つたのは、cum nexumと韻を合すためであつたかとも想像されるが、固より甚だ不確実である。
(34) 久保正幡、前掲六号三七頁。
(35) 私はこの場合、強いてイェーリング(I S. 310)のように、水と火を宗教的なものと考える必要はないと思う。Mitteis S. 24 Anm. 4も反対のようである。
五 法学者の実際的活動 第四に、ローマ人の実際的現実的実利主義は、法学者の活動に現われている。世界的法律文化の産みの親法学者は、理論家科学の人ではなく、実社会におどり出て、実社会の法律問題と取つ組んでいる天才的実際家、云わば法律技師である。卑近な言葉で云えば、研究室に於て理論を考える教授型の学者ではなくて、世間の法律問題の具体的解決をはかる弁護士型の学者である。我々が今日、学問として、科学として、必要と思われる仕事は、決して彼等によつては充分に果されていない(1)。
(1) Bruns-Lenel S. 356 ff.; Schulz S. 28 ff. 拙著、上二〇頁以下。
(1)抽象帰納の仕事の欠缺 最初に、個々の現象を一般的な概念に還元し、個々の法規を一般的な主義の下に統率する抽象帰納の仕事は、科学的研究者の学問的な内的衝動である。然るに実際家たるローマ法学者はカズイスティックな個々的解決で満足した。いな彼等は普遍化一般化により、具体的事例の解決の具体的妥当性が失われることを恐れて、殊更に抽象を避けたのであつて、抽象能力に欠けていたからではない。彼等の仕事の中一番重要なのは、具体的法律問題に関して、訴訟当事者なり、法務官なり、審判人なりの諮問に答えることであつたが(1)、その具体的な問題の解決だけに終つて、それ以上の学的研究をしようとはしない。キケローも、法学者が具体的な問題に執着しすぎて、その中に通ずる原則を看過している態度を責めて、次の如く云つた。曰く「カトーやブルートゥスの本には、法について、某男某女に対し、何を解答したかをほとんど常に、一々名ざして説いているのを自分は見る。どうも自分が信ずるところ、諮問又は疑問のなんらかの原因が人間の中に存し、事柄の中には存しなかつたと我々に考えさせたり、人間の数が数えきれないほどいるので、法の認識にうんざりして、徹底的に学ぶことができないようにしたのではないか(2)」と。又別に一番もとになつている原則(caput)が判つて居れば、新しい事件なり諮問が来ても、容易にその法は判るのに、「法学者は、或いは錯誤を起させて、自分達が沢山かつ難解なことを知つているふうに見せかけるため、或いは教授方法を知らないため——この方がむしろ真実らしいが——屡々一個の認識中に存するものを無限にこなごなにしている(3)」とも云つた。法学者の解答集(responsa)問題集(quaestiones)書簡集(epistulae)の如き種類の書は、正にかかる具体的問題を集めたものに過ぎないが、告示の註解Sabinusの市民法の註解の如きもつと尨大な註釈書と雖も、本質的には異るところはない(4)。固より、彼等の間にも抽象的原則はあつた。それは法規(regula)と称せられ、共和政に於て、カトー以来展開せられた学問的方向である(所謂Regularjurisprudenz)。例えばカトーは、遺言作成時に於て無効の遺言処分は、時の経過によつて有効となることはないという所謂カトーの原則(regula Catonina)をたてたが(5)、古典法学は、そのような方向には努力していない。例えば、条件の効力に開する民法一三〇条の規定は、具体的には、停止条件附——「もしも相続人に十金を与えるときは自由人たるべし」——で遺言で解放せられた所謂候補自由人(statuliber)から、相続人が条件を成就せしめる資たる奴隷の特有財産(peculium)を没収した如き場合から起つたものであるが(6)、この場合に、「条件が成就しないことにつき利害関係を有する者によつて、成就が妨害せられる場合にはいつでも、あたかも条件は成就したものと看做される(7)」とまで抽象化せられているのは、むしろ例外的現象と云つてよく、通常は具体的問題の具体的解決で終つている。ビザンチン期には又抽象法規への衝動がうかがわれる。特に学説彙纂の最終に、「古法の種々の法規について」(de diversis regulis iuris antiqui)の章(D. 50, 17)を設けたのは、その最たる証拠である(8)。
更にローマ法にはおよそ通則的なもの、総論的なものが少い。民法一般に通ずる通則的なもの、総論的なものを掲げることを目的とする民法総則論や法律行為論は、およそ非ローマ的で、契約にしても、言語契約、要物契約、諾成契約等各種契約の理論はあつても、契約一般論契約総論はない。不当利得にしても、非債弁済の不当利得(condictio indebiti)、目的不成就による不当利得(condictio causa data causa non secuta)、目的達成による不当利得(condictio ob causam finitam)、不法原因故の不当利得(condictio ob iniustam causam)、卑しい原因故の不当利得(condictio ob turpem causam)、盗の不当利得(condictio furtiva)等の個々的不当利得(9)、不法行為にしても、市民法上の盗、強盗、不法侵害(damnum iniuria datum)、人格権侵害(iniuria)、法務官法上の悪意、強迫、詐害等の個々的不法行為(10)はあつても、統一的一般的な不当利得、不法行為理論はない。これ等統一的通則的な傾向は近世の自然法学説に負うところが多い(11)。
更に抽象的概念を嫌う精神が抽象的な法規を嫌つた如く、抽象的な定義を嫌つた。Iavolenusが「すべて法に於ける定義は危険である(12)」と云つたのは、余りにも有名である。定義をたてても、それに該当しない場合はいくらも起るわけで、「容易に覆され得ないものは少い」と云うのがその理由である。例えば住所論では、「各人がなんらかの必要がない以上は去らないつもりで、祭壇と財産の大部分を置き、出たときは外出と観ぜられ、再び帰り来つたときは外出をやめる場所に住所を有することは、疑のないところである(13)」、「各人が椅子と帳簿を備え、自分の事務を処理する所を、吾人各人の住所と解すべしと決定せられた(14)」、「もし自己の事務を植民市(colonia)に於て為さずして、常に市(municipium)に於てなし、同所に於て売買、契約し、同所に於て市場、浴場、催物を利用し、同所に於て祭日を祝い、市のあらゆる利益には浴するが、植民市の利益にはなんら与らないときは、住居のために滞在する場所【即植民市】よりは、同所に住所を有する(15)」とは云うが、ポティエーの如く「彼の滞留及び事務の主たる根拠地」(siège principal de sa demeure et de ses affaires)とか、ドイツ普通法時代の一般学説の如く「生活関係の中心地」(Mittelpunkt der Lebensverhältnisse)とか、民法(二一条)の如く、「生活の本拠」などとは云わない(16)。但し定義についても、法規と同じく、古典時代以前の共和政と以後のビザンチン期には、いずれも異つた態度を採つている。共和政のQ. Muciusは定義の書(liber ὅρων)——儒帝法典に引用せられている——を物し(17)、儒帝法典には、definitio, definireの語に関する極めて多数の修正があるものと解せられる(18)。
(1) 二一頁、八五頁。
(2) Cicero, Brutus 41, 152.
(3) Cicero, de legibus 2, 19, 47.
(4) Schulz S. 34--5.
(5) D. 34, 7 de regula Catonina. Pringsheim, Beryt und Bologna, Festschrift für Otto Lenel 1921 S. 246.
(6) 拙著、上八九頁。
(7) D. 50, 17, 161 Ulpianus.
(8) Pringsheim S. 248.
(9) 拙著、上二〇七—八頁。
(10) 同、下六頁以下。
(11) 総則編も、法律行為論も(拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号三頁、六号二八頁)、統一的不当利得観念も(片山金章「不当利得制度の其礎原理の史的発展」中央大学五十周年記念論文集三三一頁以下)、統一的不法行為観念も(拙稿「民法七〇九条の成立する迄」国家五七巻四号、一〇号)、いずれも、自然法学説に負う。
(12) D. 50, 17, 202 Iavolens: omnis definitio in iure civili periculosa est: parum est enim, ut non subverti posset
(13) C. 10, 40, 7, 1 Diocletianus.
(14) D. 50, 16, 203 Alfenus Varus.
(15) D. 50, 1, 27, 1 Ulpianus.
(16) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号一五頁。
(17) D. 41, 1, 64; 43, 20, 8; 50, 16, 241; 50, 17, 73. Krüger S. 64.
(18) Pringsheim 前掲(註5)S. 254 ff.
(2)理由づけの不足 次に解決の充分な理由づけをすることは、当然すぎるほど当然な学的命令であるが、実際家は解決がうまくできて居れば、それで使命を果している。古典法学者は、何故にかかる解決になるかに関しては、充分な理由づけを行わず、時には全然黙して、ただイエス、ノーの返答をするに止まる場合も少くない(1)。売買を例にとつても、何故に売主に所有権移転の義務がなくて、単に安全な占有を移転すれば足るのか(2)、何故に買主が危険を負担するのか(3)、明らかにしない。いな時にはほとんど理由づけを冷笑するかにさえ見え(4)、又往々他の法学者の権威を担いで、誰々法学者もかく云つたと云うに止まる場合もある(5)。
(1) Krüger S. 121. Seneca, epistulae 94「法学者の解答は、たとい理由が附されずとも有効である」参照。
(2) 拙著、上一八四頁。
(3) 同、一八八頁。
(4) 二〇三頁。
(5) 二〇三頁。
(3)組織体系の不足 次に一定の主義原則分類に則して、各規定各叙述にその所を得せしめる組織化、体系化の仕事も、学問の絶対要請であるが、それは必らずしも古典法学者の得意の方面とは云えない。最も大きな影響力を持ち、市民法体系の基礎を為したと云われるのはSabinusの市民法三巻の書であるが、その叙述体系は必らずしも完全であつたとは認められない。その叙述順序を再構して見ると(1)、遺言相続、無遺言相続、遺贈、家父権、養子縁組、候補自由人(statuliber)、被解放者の労務(operae libertorum)、mancipatio、売買、組合、嫁資、後見、盗、加害訴権、アクィーリア法、未発生損害、人格権侵害、condictio、文書契約、問答契約、対物訴権、所有権取得方法、占有、時効取得、贈与、役権、雨水阻止訴権、公川、信託、帰国権(postliminium)の如きものであつたと解せられる。相続は物権も債権も親族も皆前提するのに、冒頭に来ている。嫁資、後見が売買組合等の誠意契約の後に来て、さきの家父権や養子縁組と一緒にならないのは、売買、組合同様誠意訴権が与えられているからで(2)、我々から見て異様でも、ローマ人には別に怪むべきことではなかつたかも知れないが、mancipatioが所有権取得方法の中で説かれず、贈与が物権法の間に介入し、mancipatioと一番関係ある信託が飛び離れ、契約の中間に不法行為が介入しているなど、どう見ても感服できたものではない。Gaiusの法学提要も、市民法と名誉法とを統合した点に於て特色がある、「簡単かつ比較的明瞭」な体系(3)と称せられているが、そこにもなお相当の気紛れがあつて、婚姻法、担保物権法、占有法の説明がなく、債権の消滅が契約より発生する債権と不法行為より発生する債権の中間で説かれなどしている(4)。ビザンチン期に於ても、体系化の仕事は進歩したと云い得ないが、一種の整理作用的傾向はこれをうかがい得る。債権の発生原因に関して、契約から発生するものと、それに準ずるもの、不法行為から発生するものと、それに準ずるものの四分類を行い(5)、或いは所謂無名践成契約(contractus re innominati)をdo ut des, do ut facias, facio ut des, facio ut faciasの形に纏めたりしたのは(6)、ビザンチン期の産物と考えられる。
(1) Kübler S. 262.
(2) Gaius 4, 62. 嫁資に関するactio rei uxoriaeも4, 62中に記載せられていたことは、近時Verona写本の再検討で確定した。Cappocci, Bullettino dell'Istituto di Diritto Romano 36(1928)p. 139; Levy, Sav. Z. 49(1929)S. 472.
(3) Bruns-Lenel S. 357.
(4) Schulz S. 36 Anm. 61.
(5) 拙著、上一六九頁。
(6) 同、二〇〇頁。
(4)歴史研究の欠除 歴史研究の必要は学問に於ては認められるが、実際家はその知識なくしても一応その用を弁じ得る。古典法学者は原則として、歴史に注意を払わない。Giuasは十二表法の註釈書を物し、その法学提要には古い法律訴訟の説明があり、Pomponiusはその法学通論(enchiridium)でローマ法史を物しているが、これ等は正に異色の例外である。そのことは、学説彙纂第一巻第二章「法の起源」中に収録せられる法学者は、前記二名のみであることよりしても推測せられる。
このようなローマ法学は、キケローが理想として描いたものとは、およそ隔たることの遠いものがあつた。彼は「全市民法を少数の類に整頓し、次にそれ等の類の云わば手足を分類し、そこで、その各々の力を定義を以て明らかにする、そうすれば、人々は市民法の完全な術を持つことになり、それは、困難かつ不明瞭なものでなくて、むしろ幅のある強靭なものとなろう(1)」と云つた。然しながら、実際家としてのローマ法学者は、常に社会の事情を洞察し、利害関係を考慮して、これに適する法の解決を与え、有用な規定を案出し、非凡な考方法概念を構成し、社会に対する追随には遺憾なきを期した。カズイスティックな法学だけに、具体的妥当は常にこれを確保せんと努力している。一の学説が出るも窮極の真理ではなく、一個の経験、現に行われる仮説に過ぎない。経験が不当の結果を認識したときは又考を練り直した。そこには又極めて広い自由が与えられて、彼等の活動を拘束するような制限はでき得る限り取り除かれていた。従つて、空漠沈滞のもととなるような立法は極めて控目であつた(2)。かくして、彼等の法律学は法的安定に欠ける嫌はあつたが、常に流動し、沈滞がなかつた。かくの如き実際的、実利的、レアリスティックな活動の中に、ローマ法学は栄えたのである(3)。その法学者の中には、固より多少のニュアンスはあろう。LabeoやIulianusやPapinianusはむしろ鋭い型に属し、Ulpianusは博識の誉が高く、GaiusやPomponiusは歴史を研究し、Sabinusはとにかく体系を立てたという点では確かに一種の特色は持つている。それにもかかわらず、法学者の一般的な色調としては、上記のような特色を帯びる実際現実実利の法学者であつたことは否定できない。サビニーが、古典法学者を評して、「代替的人物(4)」(fungibile Personen)と云つたのは、正にかかる意味に於てであつた。
(1) Cicero, de oratore 1, 42, 190.
(2) 一八六頁。
(3) Francisci, Storia del diritto romano II 1 1929 p. 343: il loro realismo e il loro pragmatismo. 拙著、上二一頁。
(4) Savigny, Vom Beruf unserer Zeit 3 Auf. 1840(Neudruck 1892)S. 157.
六 訴権の体系 第五に、実際的性格は法を訴権の側より観察し、権利の体系として取り扱わなかつたことにも表現せられる。ミッタイスは云う、「現代のジステマティークは、権利の抽象観念から、その個々的表現形式へと論を進め、それに従つて各場合に、物権、債権、親族権の区別をしているが、このような分類は、ローマ人の知らないところである。なぜならば、『人に関するユース、物に関するユース、及び訴権に関するユース』なる三分類は、権利の分類ではなくて、法の分類だからである(1)」と。事実ローマ人は権利に関する説明はなんらしていないが、訴権の何たるかはこれを忽にしてはいない。これ蓋し「羅馬人は、実行を離れては権利なるものに何等の価値なし、実行力の伴なふ所の権利にして始めて其の価値を認め得へく、因りてactioの何たるかを明かにすれは権利の何たるを言はさるも足れりと為した(2)」からである。固より「古典法は全く訴権の体系である(3)」と云い切つてしまうことは云い過ぎである。古典法学でも訴権の立場から説いてない法の分野は存する。所有権の得喪、問答契約法、家父権の得喪、奴隷の解放、遺言の作成等々の如し(4)。然しながら、極めて広い法の領域に於て、法は訴権の体系であつた。特に債権法がそうであつた。そのことは「債権と訴権について」(de obligationibus et actionibus)なる章が学説彙纂(四四・七)にも勅法彙纂(四・一〇)にも存することよりして想像せられる。
かくの如く、法の実行性実効性が基礎となつているところでは、更に訴権と実体権との関係について考察を要する問題がある。即ち実体権が訴権を規定するのか、反対に訴権が実体権を規定するのかの問題である(5)。この点に関しては、一方市民法と法務官法とにより、他方法の領域により、同一に論じ得ないような点があるが、古くより存した市民法の権利に対する訴権の関与は、その権利の存在維持活用に対するアコモデイションに止まり、実体権が訴権を規定するが、新しい法務官法上の権利や、形式上は法務官法に属せずとも、その関与の強かつたと思われる債権——特に万民法に属する——に於ては、裁判上の保護より出発し、その保護せられたものが凝固し、社会規範となつたもので、実体関係は訴権の反射とでも称すべきである(6)。
(1) Mitteis S. 73.
(2) 春木一郎「十二表法ニ於ケルiusニ付テ」法学志林二一巻七号四頁。
(3) Biondo Biondi, Diritto e processo nella legislazione Giustinianea, Conferenze per il XIV centenario delle Pandette 1931 p. 150.
(4) Schulz S. 29.
(5) 詳細について、船田享二「近代訴権理論形成の史的研究」京城帝国大学法文学会第一部論集第三冊(5)。
(6) 従つて、拙著、上一三頁、下一五八頁が市民法と法務官法の区別として説くところは、幾分修正を要する。
第八章 保守伝統
一 概説 ローマに於ける諸々の徳の一つに、重々しさ(gravitas)恒常さ(constantia)なるものがあつて、これが往々ギリシャの軽々しさ(levitas)に対比せしめられている(1)。どつしり腰を下して、軽々しく流行に走ることをせず、常に変らない態度を持して、空しい世情の転変に掻き廻されることはしない。こうした徳を徳とする性格の国民には、祖先伝来の慣習(mores maiorum)なるものは、限りなく貴いものであり、これより離れ去ることは、「徒らに流行を追う物好き」(novarum rerum cupidus)として世間より排斥せられる。紀元前九二年、戸口総監Cn. Domitius AhenobarbusとL. Licinius Crassusがラテンの修辞学を禁止した——修辞学と云えば、ギリシャ修辞学でなければならなかつた——告示に曰く、「新なる種類の学問を開き、彼等のもとに若者をして学びに来さしむる者ありて、彼等自己にラテン修辞学者なる名称を冠し、そこには未だ成長せざる者、終日憂身をやつす由我等に聴ゆ。何を我が子に教え、いかなる学校に行かしむべきかは、我等の祖先の既に定めたるところなり。祖先の習慣及び慣習の外にて為さるるこの新しきものは、我等の意にも合せず、かつ正しとも観ぜられず。故にその学校を保持する者に対しても、同所に赴くを事とする者に対しても、我等の意に合せずとの我等の判断を明らかにすることは、為さるべきことなりと観ぜらる(2)」と。かかる祖先の慣習に対するあこがれは、古典学者にも共通のものであつた。さきに記したCassiusが、暗殺せられたPedaniusの奴隷四百人に対しシラニアーヌム元老院議決を適用して、死刑に処すべきか否かの問題が囂々として輿論を沸騰させたとき、元老院に於て行つた適用賛成の演説(3)の冒頭は、「祖先の制度や法律に反対して、元老院の新しい採決が要請せられたときには、共記の元老院議員よ、自身は屡々この会合に出席していた。そして反対もしなかつた。反対しなかつたのは、それは、すべての事柄に対し、古い時代には比較的良くかつ正しく規定せられてあつて、〔元老院で〕覆されたものはむしろ改悪であることを疑つたからではなくて、古い慣習に余りに執着を感じ過ぎて、熱をあげていると解せられたくなかつたためである(4)」との語を以て始つている。かく云えばとて、ローマ人は決して徒らに懐古主義に堕して、進歩と前進を阻止したわけではない。衆智を集め、年代をかけた堅実な徐々なる一歩一歩の前進こそは、ローマ人の誇としたところであつた。キケローの伝えるところによれば、彼のカトーは、ローマ国が他の諸々の国に比して優れた点として、他国に於ては、例えばクレータのミーノース、スパルタのリクールグス、アテネのテーセウス、ドラコー、ソローン、クリーステネースその他の如く、国をその法律と制度を以て組織立てたのは個人であつたが、ローマに於ては、一人の智嚢ででき上つたのではなく、世代と年代とをかけて、多数人の智嚢を結集して作り上げていることを掲げるのを口癖のようにしていたと云う(5)。このような健全な保守主義は、無気力な形成能力の不足から来たのではなくて、年代をかけて育成したものは、その生命も容易に尽きるものでもなく、その最後まで使命を果させるためである。ローマ法の出発点を形成する十二表法は、古典時代に至るもなお、LabeoやGaiusによつて註釈せられるほどの生命力を有していた(6)。然らば、かかる保守主義から、いかなる法現象、法制度が生まれ来ているか。
(1) Schulz S. 57 ff.(Tradition).
(2) Gellius 15, 11, 2. Marquardt S. 109.
(3) 二九頁。
(4) Tacitus, annales 14, 43.
(5) Cicero, de re publica 2, 1, 2.
(6) 船田享二、一巻一二〇頁。
二 古いものと新しいものとの併存 ローマ法に於ける極めて顕著な現象として、新しい法制度、法体系、法組織は、古いそれを直接に改廃して、自己の単一性を主張することなく、古いものをそのまま残存せしめ、新しいものと古いものとの競争により、古いものを自然淘汰するを常とすると云う現象がある(1)。方式自由の万民法上の諾成契約や要物契約が出現しても、幾多例外はあれ、無方式の合意(pactum)からは訴権を生ぜずとの原則は、儒帝法に至るも廃止せられたことなく、問答契約が依然として一般普通の合意に拘束力を与える手段であり(2)、引渡が出現してもmancipatio, in iure cessioは直ちに廃止せられることなく、儒帝法に至つて初めて消滅しているに過ぎない(3)。衡平を旨とする「活きた声」(viva vox)たる名誉法とても、市民法とは第二期を通じて競合して存在し、両者の融合は第三期に至つて初めて行われたに過ぎない(4)。例えばres mancipiのtraditioによつて所有権は移転しないとする市民法の原則と、その場合に所謂法務官法上の所有権を成立せしめる名誉法の原則との対立がなくなつたのは、儒帝に至つてのことである(5)。市民法の相続hereditasと法務官法上の相続bonorum possessioの対立を解消して、新たな統一的無遺言相続法を確立したのは、儒帝新勅法一一八号と一二七号であると云つてよい(6)。訴訟法の領域に於ても、同一のことが云い得る。最早新時代の情勢には副い得なくなつた法律訴訟(legis actio)手続を、方式書(formula)訴訟手続が駆逐した過程を眺めても、最初にAebutia法が打つた手は、両者の選択を当事者に許したに過ぎず、次にアウグストゥスの二個のIulia法によつて、原則として選択も認められなくなり、軈て、例外的に残存したものも自然消滅の過程をとつたのである(7)。特別訴訟手続と通常訴訟手続との関係も同一である。古典時代を通じ両者は共存したが、ディオクレティアーヌス帝以後に至り、法廷(in iure)手続と審判人のもとに於ける(apud iudicem)手続の区別を設ける通常訴訟手続は消滅し、従前特定の場合、例えば信託遺贈、自由職業の報酬請求、扶養の請求等に用いられていた二手続に分れない特別訴訟手続にとつて代わられてしまつたのである(8)。刑事裁判についても、常設査問所(quaestiones perpetuae)の設置によつて、政務官・民会の刑事裁判が消滅したわけでなく、ただ後者は漸次行われなくなつて、前者が通常刑事裁判所たる地位を取得するに至つたが、かかる地位を獲得すると同時に、同裁判所は皇帝と元老院の刑事裁判の挟殺を受け、軈て不使用に帰したと云う歴史を経ている(9)。アウグストゥスの帝政組織とても、かかる現象の一環として眺めることができ、又眺めなければならないのであつて、アウグストゥスによつて、共和政の諸組織は廃止せられたどころか、却つて民会も元老院もその機構を恢復せしめられたのであるが、ただ共和政の諸機関の傍に、共和政時代多数政務官に分掌されていた権力を一身に集中し、而かも更新によつて終身その権力を持続したところの、共和政の衣を被つてはいるが、新たな意義を有する皇帝なる一要素が併立し、この皇帝の事実上の権威が優位を占めて、帝政組織の成立したことは、船田博士の名著「羅馬元首制の起源と本質」の明らかにせられたところである。
(1) 船田享二「羅馬元首制の起源と本質」(昭和十一年)二六三頁以下。
(2) 拙著、上一七三頁以下、一七七頁以下、二一〇頁以下。
(3) 同、一一三頁以下。
(4) 同、一三頁、二四頁。
(5) 同、一〇〇頁。
(6) 同、下一一六頁。
(7) 同、一六七頁。
(8) 同、一六〇頁。
(9) 船田享二、前掲、二六七—八頁。
三 擬制の愛用 旧来の形式を改めずして、而かも実質を変更する手段としての擬制(fictio)は、旧態保持の保守伝統主義のもとでは、極めて愛用せられる(1)。ローマ法でも、特に法務官法形成の一大重要手段であつた。盗の訴権(actio furti)も、アクィーリア法訴権(actio legis Aquiliae)も、共に外人には適用はなかつたが、法務官は擬制によつてローマ人と看做し、彼に能動並びに受動適格性を附与している(2)。法務官法上の所有権の保護にしても同様である。彼に附与せられたactio Publicianaは、所有者の如く看做す擬制を含むrei vindicatioの働らきをなす訴権である(3)。ローマ人が外国で死亡したときは、奴隷で死亡したことになり、奴隷の相続はあり得ないと云う法理上の難点を解決せんがため、ローマ領内で死亡したものと擬制して、その遺言を活かした(4)(lex Corneliaの擬制)。国際法上の有名な例は、宣戦布告に伴う槍投の儀式である。国境より血のついた先の焼かれてある槍(hasta praeusta)を相手国に投ずるのであるが、ピルスとの戦、クレオパトラとの戦等、地理上それが不可能なときは、ローマ市内の僅少の土地を敵国と看做し、ここに投入することによつて、形成的満足感を充たしている(5)。
(1) 末弘厳太郎「嘘の効用」二二頁以下。
(2)(3) 拙著、下一七九—一八〇頁。
(4) 同、上五一頁。
(5) 春木一郎「Fetiales」京法四巻一一号一〇八頁。
四 仮装模倣行為の頻繁 保守的国民は現存の法律制度になんらかのひつかかりを求め、その上に新法律行為、新法律制度を打ち立てる傾向がある。そのとき、表面上或る行為を仮装又は模倣することが往々行われる。擬制が公然嘘をついているのに反し、仮装模倣行為は少くとも表面上は、隠しだてをやつている。ローマに於ては、訴訟の形式を採るものが頗る多い。曰く訴訟の形式を採つた物権や後見権や相続財産の移転の方法たる法廷譲与(in iure cessio)(1)、曰く子取戻の訴(vindicatio filii)を利用する養子縁組(adoptio)(2)、曰く自由身分恢復の訴(vindicatio in libertatem)を装う棍棒式奴隷解放(manumissio vindicta)(3)等々。訴訟代理の形式を用いて行われた債権譲渡(4)も、仮装模倣的行為の範疇に入るであろう。債権が単純な弁済で消滅することとなるや、従前実質的な弁済の外に必要であつた反対行為(actus contrarius)を、免除に利用するに至つたのも、この部類に入れて差支えないであろう(5)。
(1) 拙著、上一一四頁、下一〇〇頁。
(2) 同、下七〇頁。
(3) 同、上五二頁。
(4) 同、下三三頁。
(5) 同、二〇頁。
五 法律解釈に於ける擬制的模倣的性格 擬制的模倣的性格は法律の解釈の中にも現われる。iniuriaなる不法行為が、当初に於ては有形的身体傷害にのみ限定せられていたのが、後に無形的な名誉の侵害をも包含するに至つた場合に、有形的身体傷害のみに限るとの従前の立前との調和に苦心した結果、その無形的名誉の侵害を耳に対する不法行為と解釈していた(1)。遺言者の近親の有する不倫遺言の訴(querela inofficiosi testamenti)は、もしも無遺言相続が発生していたならば受けたであろう額の四分の一にも達しない場合に、かかる遺言を為した遺言者に精神錯乱あるも同然、所謂精神錯乱の色(color insaniae)ありとして、遺言を取り消すのであるが(2)、これ亦末期行為が往々意思欠缺を伴う事実に手がかりを求め、その上に立てた仮構に過ぎない(3)。
(1) 石井茂樹「iniuriaの史的観察」法協四二巻六号一三六頁。
(2) 拙著、下一二七頁。尤もかかる精神錯乱者を仮構することは古典時代のことではないとする学説がある。
(3) 拙著「楔形文字法の研究」二三六頁。
六 同一法律行為の種々の目的への転用 保守的国民は新しい法律行為を形成するにも、従来あり来りのもので間に合せる。ローマの銅と衡を以てする行為(negotium per aes et libram)がいかに種々に用いられていることか。物権法の領域では、所有権の移転、役権の設定方法であり、信託約款を附すれば、更に債権担保方法となり(1)、債権法の領域では、拘束行為(nexum)の発生及び消滅、転じて要式免除行為となり(2)、相続法の領域では遺言の方式に応用せられ(3)、親族法の領域では、養子縁組(adoptio)や家父権免除(emancipatio)中の欠くことを得ない手続の一部を構成し(4)、夫権発生の方法(coemptio)にも、解消の方式(remancipatio)ともなり(5)、そのcoemptio自身が更に後見人の変更や、自由な遺言権能の取得や、家祀廃絶の目的に利用せられている状態である(6)。
(1) 拙著、上一一三頁、一二九頁、下四三頁。
(2) 拙著、上一四九頁、下二〇頁。
(3) 同、一一九頁。
(4) 同、七〇頁、七五頁。
(5) 同、八二頁、八六頁。
(6) Gaius 1, 114 ss. 末松謙澄「ガーイウス羅馬法解説」三版六一頁以下。
七 本来の意義に副い得ない用語、従来の目的を達成し得なくなつた制度の保存 「外国に」とは「タイバー河を越えて」(trans Tiberim)と称する。本来タイバー河がローマの国境であつた時代の言葉が、世界帝国となつた後まで保持せられているのである。通常訴訟手続が廃止せられた後も、訴訟上の諸々の語が意義を変じて保持せられているのは、これと類似する(1)。ケントゥリア民会(comitia centuriata)が開かれるときは、Ianiculum丘に衛兵が立ち、敵の急襲を監視し、赤旗を高く掲げ、もし敵が現われるときは、これを下すことを以て即刻民会の閉会を要することの合図とした。しかも、タイバー河がとくの昔に国境でなくなつたキケローの時代にも、同じようなことが行われている(2)。全市民をローマに開かれる民会に召集することは、ローマ都市国家を予定しているが、世界帝国となつても、遂に民会を代議制とするような考には到達しなかつた(3)。法律はローマ市のみに公布せられたに過ぎない。世界帝国になつても、この制度は改められなかつた(4)。
(1) 一三四頁以下。船田享二、四巻六二〇頁参照。
(2) Kübler S. 69.
(3) 一九三頁。
(4) Schulz S. 166.
八 儒帝法の保守的懐古主義 最後に儒帝法の保守的懐古主義を考えて見なければならない(1)。当時の精神文化一般について、古への復帰、伝統の尊重、ギリシャとの分離等の現象が、芸術にも、文学にも、哲学にも指摘せられているが、法律にも、正しく同様の現象が看取せられ、古典時代へのあこがれの余り、当時の事情に副わない古典法制をそのまま維持したり、既に滅びた制度を復活せしめたり、古の官職を模倣又は復活せしめたような例は枚挙に暇がない。その意味に於ては、儒帝は正に保守主義を一歩越えた懐古主義者である。彼の勅法には、いかに昔を讃美する言の多いことか。曰く「‥‥のことは、古き幾多の知識を愛する者は知らざることなし(2)」、曰く「これ等のことを考えつつ、又古時代を、再び更に一層の光華を以て、国家に引き戻しつつ、又ローマ人の名をば威厳づけつつ云々(3)」、曰く又「古き時代は良く規定したるも、新しき時代は忽にしたることは云々‥‥蓋し尊敬すべき古時代の権威は云々(4)」等々。既にその法典の編纂方法自体が、古典時代へのあこがれなくしては為し得べきところではない。又当時の日常語はギリシャ語であつたのにかかわらず、帝はラテン語を「祖国語」として、公式の法律語、帝国語に採用している。その保守懐古主義の具体例を一つ一つ掲げることは余りに煩雑に過ぎるので(5)、ただその最も顕著な訴訟法を一例に採つて、一班を偲ぶこととしよう。周知の如く、ディオクレティアーヌス帝以後は、法廷手続と審判人のもとに於ける手続の二審にわかれる通常訴訟手続は消滅して、国家の官吏たる裁判官が訴訟の初から終迄を担当する特別訴訟手続、審理手続のみとなり、従つて、以前通常訴訟手続であつた方式書訴訟の方式書(formula)を似て、審判人に対して、判決の基準を示すと云うことはなくなつたが、而かもなお方式書は訴権を指示し、特色付け、他との区別立てをする目的のために依然として用いられ、非債弁済の不当利得の訴権について、「同人が与うることを要すること明らかなるときは」の訴訟を提起し得べき旨を記している(6)。法廷手続の最後の段階に於て、原告と被告の間の契約を表現する行為で為された争点の決定(litis contestatio)も亦、審理手続では消滅すべき運命に在つた筈であるが、依然として維持せられ、実際なんらこれについて行為をやつたわけではないのに、原告と被告が初めて事件の主張と反駁と云う訴訟行為を開始した時に、これがあつたものと擬制している(7)。被告の召喚には、今や国家権力の介在によつて行われる召喚(convocatio)制度が起つたのにかかわらず、かつて私人として行つた法廷召喚(in ius vocatio)は依然としてその名称を止めている(8)。禁令(interdictum)手続も、実際には訴権(actio)による手続となつているに拘わらず、依然として名称は保存せられている(9)(例えば占有訴権)。方式書の特別構成部分で、審判人の権限を制限する特殊な技術的意味を持つていた抗弁(exceptio)も、方式書の消滅とともに消滅すべき筈であつたが、今や全く意義を変じて防禦方法そのものを指すようになつた(10)。法務官法上の訴権で、方式書に具体的事実を記していた事実訴権(actio in factum)は、明らかに儒帝前に消滅していたが——テオドシウス法典に一つとして見えないことからしても推測せられる——、今や昔の特徴を喪失して、広範囲をカバーする総括的訴権(γενικὴ ἀγωγή)となつている(11)。
(1) Pringsheim, Die archaistische Tendenz Justinians, Studi Bonfante I(1930)S. 549 ff.
(2) Nov. 30, praef.
(3) Nov. 24, 1
(4) Nov. 23, 3. その他Pringsheim前掲S. 558参照。
(5) 詳しくは、Pringsheim前掲S. 559 ff.参照。
(6) In. 3, 14, 1. 方式書の残存について、船田享二、四巻六一九頁。
(7) 拙著、下一九〇頁。
(8) Wenger S. 260 Anm. 5.
(9) 拙著、下一八六頁。
(10) 船田享二、四巻六六九頁。
(11) 拙稿「民法七〇九条の成立する迄」国家五七巻四号四六—七頁。
第九章 個人主義、個別主義
通常ゲルマン法の団体主義に対して、ローマ法の個人主義が対立せしめられている。近時このローマ法の個人主義的性格を否認するものもあつたが(1)、少くとも我々の主眼に置く時代には、かかる性格は否認し難いように思われる。それは何よりも具体的な検討に俟つより外はない。
(1) 船田享二「古代羅馬法と近代個人主義」京城帝国大学法学会論集一二冊二号。なお同「法律思想史」一三三頁参照。
一 人の結合 まず人が人と結びつく諸々の場合を考えて見る。
(1)法人 第一は法人である。儒帝の学説彙纂には僅かに公法人に関する少数規定が存するのみである(1)。私法の領域に没頭して、公法の領域にはほとんど解れないのを通常とするローマ法学者が(2)、僅かばかり公法人を論じて、私法人にはほとんど触れていないこと自体が、ローマに於ける私法人の社会生活に於ける可欠性を推測せしめる。幸にして社団に関する金石碑文は相当残存しているが(3)、結局埋葬社団と職業社団以外にはほとんど出でるところはなく、多様性がない。プリニウスとトライアーヌス帝との間にかわされた手紙は、法人に対するローマ人の考のバロメーターと解せられる。プリニウスは彼の任地に火災が多く、住民が自発的に消防社団を結成せんとし、プリニウス自らもその必要を認め、皇帝に許可あらんことを希望したのであるが(おそらくは紀元前七年のIulia法によつて、法人の設立には許可が必要となつた)、トライアーヌス帝は許可を与えていない。固より同帝が許可を与えなかつた動機は、政治的理由に存したのであるが、かかる偏狭な政治的態度を持続させているところに、ローマ人の法人熱、団体結成の意欲の稀薄さをうかがわせるものと云わねばならない(4)。国家と個人の中間に立つ団体に、社会生活にとつて不可欠な本質性が認められていないところでは、団体を律する法理も、個人法理を出でず、団体に特殊な団体法理は生まれ出ない。例えば、地方自治体に設定せられた用益権(ususfructus)は、何時消滅するかが法学者の間で論議せられた。論議の種となつたのは、用益権は多分に扶養的意義を持つ権利なるがため、権利者の死亡によつて消滅し、消滅を予定する権利であるのに、公法人は死亡しないがためである。これに対して一部の学者——或は儒帝?——によつて、用益権は百年の経過により消滅するとの解決が与えられている。けだし百年は人生の最長生命であるからと云うにある(5)。法人の生命が百年などとは、出鱈目以外の何物でもあり得ない。又法人が解散した場合には、その財産はいかになるかが中世以来論議せられている。実は儒帝法典には、その場合に対する何等の解決も見出せないのであるが、個人法主義のローマ法の流れを汲む多数学者は、相続人不存在の遺産と同じく、国庫に帰属せしむべしと主張した。法人に個人と同一の相続人がないからと云つて、個人の場合と同一に取り扱ういわれはない。果して、解散法人と同一目的を有する法人を以て、社会法的相続人なりとし、これに財産を帰属せしめる考方が一方に現われるに至り、民法(七二条二項)にも採り入れられている(6)。
(1) Schulz S. 101 Anm. 39.
(2) 八〇頁。
(3) 拙稿「古文書古記録の研究」法協五〇巻一一号九七頁以下。
(4) Plinius, ad Traianun 83 et 84. Schulz S. 101.
(5) 拙著、上六八頁、一二七頁。
(6) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号三七—八頁。
(2)共有 第二は共有である。ローマ人は共有を以て紛争のもと(mater rixarum)となし、共有者間の紐帯、共同目的による拘束を極めて薄弱にし、共有者の一人が他の同意なくして、その持分を譲渡することを認め、而かも他の共有者に譲渡持分の先買権さえ認めていないような状態に据え置いて、もしそれで不都合ならば、何時でも分割の請求は認める、永久不分割の特約は認めない(民法二五六条)、協議が調わなければ、何時でも共有物分割の訴なり、遺産分割の訴なりで訴え得る(民法二五八条)、分割の訴では、審判人に裁定附与(adiudicatio)する権限を与えてあると云う態度を示している。共有はできる限り少くし、一旦成立すれば、できる限り拘束を弱め、その継続を阻止する——これが正しくローマ法的考方である(1)。かかる共同紐帯の薄弱は、ローマ法継受後の各国法でも堪え忍ぶことができなくなつた。フランスでは、遺産分割の遡及効(民法九三九条一項)なる理論を案出し、又共同相続人に他の共同相続人が分割前譲渡した相続分を譲り受ける権を認め(民法九〇五条)、ローマ法よりは遥かに紐帯の強いゲルマン法の総手的共有(Gesamthand)合有に、事実上接近しようとした。けだし、共有者の一人が持分について抵当権を設定しても、分割の効果が遡及するときは、抵当権の客体たる不動産が設定者に振り宛てられない限り、無権限の設定行為となる惧があるから、債権者は勢他の共有者の同意を得て設定すべきことを要求するであろうし、後日他の共同相続人が買戻権を行使するようでは、折角の持分譲渡も意味がなくなる惧があるから、これ又買主は他の共有者の同意の上で売却することを要求するであろうからである(2)。組合の結合とても同一である。ローマ法では、組合財産とても通常の共有であつて、前に述べたところとなんら異るところはない。素姓の知れた者の間で組合を結成しているのに、組合員の一員が勝手に持分を譲渡して、他人が代りに入り来つたときに、円満に事が運ばないことは、血の繋りあつた共同相続人が共有を持続している場合に、その中の一人が持分を譲渡した場合と同じである。従つてここでも、組合員には何時でも通告して組合の拘束を脱れる道が開かれている。その切札を行使したときは、通告者が脱退するに止まらず、組合自体が解散してしまうのである(3)。
(1) Schulz S. 99 ff. 拙著、上一二二頁。
(2) 拙稿「日本民法相続編の史的素描」法協六〇巻三号四〇頁以下、四三頁以下。
(3) 拙著、上一九七頁。
元来ローマには、最初から他民族と同一の取扱を受けることを潔しとせず、他を離れ、自ら高くとまる態度があつた。周囲のラテン人種とは同一の人種でありながら、ラテン同盟に長く止まることができなかつた。カルターゴーは第二ポエニ戦争に至るまでローマと西地中海の共同支配を望んでいたが、ローマはかかる共同支配には慊らなかつた。ローマの世界支配とはかかる一歩毎の上昇衝動による前進であつて、四海同胞、互に共同しあつて同一水準に坐すると云うことは、ローマ人にはできなかつた。窮極にはローマは単独支配者とならねばならなかつた(1)。キケローは云う、「ローマ国民が仕うるは神法ではない。不死の神々はローマ国民があらゆる民族に命令することを欲し給うた(2)」と。そうした一歩擢んじた上昇衝動は、他との永遠の共同を不可能ならしめる。事は対内的な民事的活動でも同じであつた。一時の政策と打算から、他と一緒になつても、永久に他と結合させる紐帯でしめあげられることを欲しない。ここに上に掲げたローマに於ける人的結合の稀薄さがあり、自由の要求があつた。
(1) Kübler S. 67. 祇園寺信彦「古羅馬興隆の因」日伊文化研究一三号二〇頁。
(2) Cicero, orationes Philippicae 6, 19.
(3)多数当事者の債権債務 第三に、多数当事者の債権債務を考えても、原則は分割である(民法四二七条)。連帯には特別の意思表示を必要とする(1)。このことは共同相続の場合も同一であつて、十二表法の規定なるもの(2)によつて、被相続人の債権債務は、当然に、相続人の数だけに分割せられることになつている。ここにも、個人を結合するよりは、個人を独立せしめる方向に考方が向つているのである。
(1) 拙著、下五九頁。
(2) 五表の九(末松謙澄訳二四八頁)。
(4)婚姻 第四に、婚姻の場合を考える必要がある。ローマの婚姻は、寺院法の夫婦個人を止揚した一段高次の一体と理解する夫婦一体主義とはおよそ縁遠い。周知の如く、ローマの妻には夫の夫権(manus)に従う場合と然らざる場合とがあり、古い時代には前者が常態であつたが、帝政時代にはその衰滅歴然たるものがあり、儒帝法では存在しない。前者では妻は夫の家に入り、自己の娘と同一の法律的地位に置かれる。ここでは或いは夫婦は一体と云い得るかも知れないが、その一体は夫が妻の全人格を吸収してしまつた一体であつて、両者を止揚したより一段高次の一体精神の表現ではない。後者では又前者とはおよそ反対で、妻は実家の籍が抜けず、夫婦家を異にし、妻の地位は婚姻前と異るところはなく、実家に家長あれば、依然としてそのpatria potestasに服従しているのである。財産は別産であり、妻が夫の日常事務を代理する制度(民法七六一条)なく、夫婦間の法律的扶養義務も未だ第二期にはなく、諸々の不名誉訴権不法行為訴権の提起も第二期には禁ぜられて居らず、夫婦間の法定相続に至つては、法務官法上最後の順位が附与されてあるものの、六等親や七等親の遠い血族迄が優先していては、実際には廻つて来ない。特に妻は実家の家長のpatria potestasに服従している結果、その家長と夫との間に困難な問題の惹起するを免れず、例えば円満なる夫婦関係が妻の家長によつて撹乱せられるが如き問題は、第二期を終るまで解決ができなかつた如くである。かかる個人主義自由主義的性格の著しい婚姻では、固より婚姻自体に超個人的価値が認められる余地はなく、婚姻の価値は婚姻が当事者に与える利益とともに消滅する。従つて、離婚は極めて自由に行い得た。一方的離婚の意思表示で足りたのである。ローマに於ては協議離婚なる観念はない。たとい協議が調つても、その実行となれば、一方的な意思の通告で足りるのである。この離婚権たるや、特約を以ても剥奪することを得ず、いかなる離婚と雖も許されない場合はなく、ただ不当な離婚には罰を伴つても、離婚自体は有効である。かかる気軽な離婚権は、実際生活でも自由に行使せられたものの如く、諷刺作家は、アウグストゥスの婚姻立法後一月を経ないうちに、第十番目の男に走つた女を登場させ、教父は婚姻の効果として既に離婚ありと難じ、幾多諸名士もその例に洩れず、キケローは、「年老いてから若い富裕な女を娶つて負債を弁済するためその不在中に家事を疎かにしたとの理由でテレンチアを離別し然も新たに娶つた妻をも亦幾何もなくして離別し」、「カエサルも亦、或罪の疑を受けた妻のために証言を拒みつゝ疑を受けた者が家に在ることを欲せぬといふ理由で之を離別し」、婚姻立法者アウグストゥスも亦「政略的理由のみを想像し得る離婚と再婚との経験者であ」つた(1)。
(1) 船田享二「羅馬婚姻法雑考」法学新報五十周年記念論文集一部、二四—五頁、赤土正真「羅馬法に於ける婦女の私法的地位」法協六〇巻一〇号八五頁以下、拙稿、国家四三巻一二号一二四頁、拙著、下七七頁以下。
(5)親等計算方法 最後に親等計算の方法も個人主義的である。ローマ法の計算方法は、直系親にあつては、両者間の世数、傍系親間にあつては、両者の共同始租に至る世数の合計である(民法七二六条)。そこでは、個人が紐帯の結合単位となつて、個人と個人の繁りを定めているに過ぎない。ドイツ・寺院法の如く、親族圏内に各系列が一つの機関として位して、結合単位となり、個人はその系列内の一所属員として出発し、その系列内で遠近を定めている団体主義的計算方法と異つている(1)。
(1) 拙稿「民法親族編の歴史的比較法的研究」国家六〇巻七号二七頁。
二 刑法に於ける個人責任 個人主義が刑法の領域に現われるとき、刑事責任は専ら個人責任となる。ローマに於ては、比較法制史上頗るその例の多い親族乃至公共団体近人の連帯責任たる緑坐や連坐の制度はほとんどない(1)。ディオニシウスの説くところによれば、Cassiusを死刑に処した場合(紀元前四八五年)、その子供をも殺すべしとの声があつて、元老院議決が可決せられ、子供には一切親の報の及ばないことが宣告せられて以来、権勢欲望者(tyrannus)、近親殺(parricida)、謀反人(proditor)の子と雖も、なんら不利益を蒙ることなく、一時スルラの時代、政治犯人の子を親の官職及び元老院より閉め出すようなことをやつても、一般人の不評を買つたのに反し、ギリシャ法に於ては、権勢欲望者の子供を、或いは親と共に害し、或いは追放しているとして、両者の差異を対立せしめている(2)。キケローも云う、「およそいかなる国家と雖も、もし父又は祖父が罪を犯した場合に、息又は孫が有責判決を受けると云うような法律の提議者を堪え忍ぶであろうか(3)」と。神皇兄弟も、「父の犯罪又は刑罰は息に斑点を加うることを得ず。けだし、各人はその犯したるところよりして、運命に服せしめられ、かつ他人の犯罪の相続人は作らるべからざればなり(4)」との趣旨の指令を発している。これに異る法律は、紀元一世紀代の一元老院議決が、前執政官の妻が罪を犯した場合に、夫にも責任を負わせた(5)のと、アルカディウスの三九七年の勅法が、国家犯罪人の息に死因行為による取得を禁じ、官職より閉め出した(6)だけである。ティベリウスがSeianusの子供を殺し、ネローが陰謀者等の子供を罰したのは、違法な処分であつて、法律による裁判ではない(7)。
(1) Mommsen, Strafrecht S. 593; Schulz S. 138. 拙著「楔形文字法の研究」二五五頁以下、二六二頁以下。
(2) Dionysius 8, 80.
(3) Cicero, de deorum natura 3, 38, 90.
(4) D. 48, 19, 26 Callistratus.
(5) D. 1, 16, 4, 2 Ulpianus.
(6) C. 9, 8, 5, 1 Arcadius.
(7) Tacitus, annales 5, 9; Suetonius, Nero 36. Mommsen, Strafrecht S. 594; Schulz S. 138.
三 物の結合 人と人との結合形態が個人主義なるが如く、物と物との結びつき方に対する考方も極めて原子的(atomisch)で、最小単位のこなごななものに還元してしまわねば承知ができない。相続財産の上に用益権が設定せられても、相続財産の上にただ一個の用益権が成立するのでなく、相続財産を構成する財産の数だけの用益権、準用益権が成立する(1)。かかる考方の行われるところでは、物と物との結合故にこそその経済的価値が認められる聚合財産観念や、従物論はその発達を望み得ない。ここにも亦ゲルマン法との著しい対立を見る。現代の諸々の企業財団はゲルマン法にその流れを汲み、従物論は素朴ながらも、ゲルマン法が遥かに其の本質をつかんでいる(2)。
(1) 拙著、上七五頁。
(2) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻六号一二頁以下。
四 対第三者関係の考慮 個人主義に於ては、個人が中心となる結果、ともすれば対第三者関係の顧慮に冷淡で、第三者に対する思い遣りがなく、悪く行けば何処までも自我を通し、飽くまでも自己の既得権を主張する我利々々の利己主義に堕する。かかる性格はローマ法の各所に現われている。
(1)公示方法の欠除 ローマ法では第三者に対する公示方法が欠けている。物権を始め排他性を包蔵する権利は、すべてこれを第三者に公示しなければ、第三者は不測の損害を被る。物権に関して友朋民族のギリシャ(1)でも、ゲルマン(2)でも、極めて合理的な公示手段を講じているのに、ローマ法ではこれ亦極めて不備である。ローマに於ては、市民法上の物権の生前行為による設定移転は、mancipatio, in iure cessio, traditio等の行為が必要である。領土の極めて狭かつた時代には、mancipatioやin iure cessioも或る程度公示の役目を果していたであろう。然しながら、世界的帝国となつたローマでは、最早かかる意義は求め得ない。ましてtraditioをや(3)。市民法以外の物権に至つては、なんら特別の行為さえ必要としない。単なる当事者間の無方式の合意のみで物権は成立し、それだけで第三者にも対抗が可能である(4)。かかる法制のもとに生まれ出たローマの抵当権程不備なものはない(5)。抵当権を秘して売却し、一番抵当と偽つて二番抵当を設定するが如き詐欺行為は、容易に行われ得る。又出生届簿の制度はあつたが(6)、婚姻届簿の制度はない。ただ慣習上迎妻式(deductio in domum)があつて、鳴物入りの行列を行つたが(7)、悪意ある者にとつては、自己の結婚を秘して、他と結婚することには、さして障碍とはならない。けだし、かかる迎妻式の公示作用は、極めて限定せられた地域にしか及び得ないからである。精神錯乱者の保佐(cura prodigi)は、精神錯乱の開始とともに当然に開始し、終了とともに当然に終了し、精神錯乱中の行為は無効であるが、中間の平静時(lucida intervalla)に為された行為は有効である(8)。これほど真実なことはないが、実際上は対第三者関係に於て、問題は極めて紛糾する。けだし、平静時の行為か否かの事実問題を廻つて争われるからである。従つて、フランスに於ては、遂に精神錯乱者に対しても、禁治産宣告の制を採用するに至つた(9)。
(1) 田中周友「古代ギリシャ法に於ける物権公示制度」論叢三二巻二号、同「古代エヂプトに於ける不動産登記制度」論叢二三巻四号、二四巻二号。
(2) 拙著「楔形文字法の研究」八五頁以下。
(3) 拙著、上九五頁。
(4) 同、九六頁。
(5) ローマ抵当権の不備について、拙稿「日本民法物権編の史的素描」中田論文集三〇六頁以下。
(6) 拙稿「古文書古記録の研究」法協五〇巻九号一二六頁以下。
(7) 具体的な迎妻式の模様については、拙稿、国家四三巻一二号一一二頁以下。
(8) 拙著、下一〇七頁。
(9) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号八頁。
(2)第三者関係解決の遷延 ローマ法では、解決しなければならない第三者の地位を、徒らに長く放置している嫌いがある。失踪不在の解決がそうである。ローマ法がそのような場合に問題としているのは、ただ当事者の婚姻、占有、財産の管理、当事者の子の婚姻等の若干の問題だけで、全面的な一応の解決を図ることはしていない(1)。一般の第三者は、本人の消息が判明するまでは、いつまでも中ぶらりの状態に置かれる。これは第三者にとつて迷惑至極である。かかる法制に我慢ができなくなつて、後期註釈学派以来、死亡の推定や生存の推定の規定を設け、遂に裁判所の失踪宣告の制度にまで進転していつたのである(2)。
(1) 拙著、上六五頁。
(2) 栗生武夫「死亡宣告制度の成立するまで」(「法の変動」所収)、大谷美隆「失踪法論」(昭和八年)、拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号一六頁以下。
(3)善意の第三者の保護の欠除 ローマ法では善意の第三者の保護が完全ではない。殊にこの善意者が外部的表象を信じた場合であつても、保護されない。誰が見ても権利者としか思えぬ非権利者から動産上の権利の設定移転を受けても、誰が見ても相続人としか見えない僭称相続人と法律行為を結んでも、いかに受領権あるらしく見える者に弁済しても、その者は保護されぬ。現代法でこれら表象保護の規定を設けているのは(民法一九二条、四七八条、四八〇条。表見僭称相続人の相手方保護の規定は我が民法にはない)、ゲルマン法系統の流れを汲むものである(1)。通謀虚偽表示を信じた善意の第三者を保護する規定(民法九四条二項)を設けたのも、後期註釈学派であつて、ローマ法ではない(2)。これを要するに、嘘は嘘、真実は真実、たとい嘘が真実の仮面を被つていても、それは嘘であつて、嘘として取り扱わねばならぬと云う冷酷な態度がローマ法である。これに反して、たとい嘘は嘘であつても、誰が見ても嘘とは思えぬ場合には、その嘘を信じた者を保護してやらねば気の毒であると云う思い遣りある態度がゲルマン法である。
(1) 民法一九二条の即時取得の歴史について、拙稿「日本民法物権編の史的素描」中田論文集二六五頁。四七八条の債権の準占有者に対する弁済の規定の歴史は詳にし得ないが、少くともローマ法ではない。四八〇条の受取証書の持参人に対する弁済の規定の歴史について、Gierke III S. 151 Anm. 37. 表見僭称相続人の相手方保護の制度について、拙稿「日本民法相続編の史的素描」法協六〇巻一号一七頁。
(2) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻六号三一頁。
(4)既得権の主張 ローマ法に於ては、第三者の損害に於て既得権を保護している嫌いがある。いな公益にさえ容易に譲ろうとしていない。ローマのrei vindicatioはオールマイティーである。「予が予の物を発見するところ、予これを取戻し」(ubi rem meam invenio, ibi vindico)、いかなる第三者の手からも取り戻すことができるが、その際には代価の償還すらもその必要がない(1)。比較法制史に徴しても、かかる利己主義的法制は稀である(2)。棄児についても、コンスタンティーヌス帝に至るまで、子取戻の訴が親に無制限に認められ、養育費の償還すら原則として必要ではなかつた。必要なのはただ拾つて育てあげた育て親が、自己の息と結婚させようと欲したのに、棄児の親が反対した場合だけである。かかる法制のもとでは、折角の育ての親の好意と苦労が、非道利己的な実親に裏切られてしまう危険が頗る大きい(3)。錯誤を犯し、それに過失があつても、それが重過失に至らないときには、その錯誤を自ら第三者に対しても主張ができる(民法九五条)。ギールケは相手方保護の立場より、此の規定を痛烈に非難したことであつた(4)。個人の既得権と公益事業との衝突は、公用徴収について発生する。ローマ法に於ける公用徴収の存在は学者の間に於て争われている(5)。土木事業の国として知られる国に於て、かかる制度が存在しなかつたとは到底考え得ないが、少くとも国家が個人に対して遠慮し、控え目であつたことは疑の余地がない(6)。フロンティーヌスの伝えるところでは、ローマの古人は、公共事業のため必要あつて、個人の私有地を買い取ろうとする場合に、彼がその必要な部分のみの買収に応じないときは、国家は全部の土地を買い取つて、不必要な部分は更に転売する手続を取つたことを、歎賞すべき公平さと賞め称えているし(7)、アウグストゥスも、自己の名を冠したフォールムの建設に当つて、「近隣の家をその所有者から取り上げることを敢てせず、フォールムを狭くしてしまつた(8)」し、某が「自分の土地を通つて水道を引くことを肯じなかつた」ので、国家の公共工事の障碍になつた事例をリーウィウスは伝えている(9)。これ等は国家がいかに個人の既得権を尊重したかの証拠として、称讃の眼を以ても見られるが、反面には又既得権を楯にとつて、国家の公共事業をも挫折せしめることも意としない利己精神の顕現として、非難の対象ともなる。
(1) 拙稿「日本民法物権編の史的素描」中田論文集二六六頁。
(2) バビロニア・アッシリア法、ギリシャ法、ユダヤ法について、Felgenträger, Antike Lösungsrecht 1933 S. 52 ff.
(3) 拙稿「古典世界に於ける生児遺棄の研究」春木論文集三四三頁。
(4) 拙稿「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻六号三四頁。
(5) 拙著、上一〇五頁。
(6) Jhering II S. 72(五号一四六頁).
(7) Frontinus, de aquaeductu 2, 128.
(8) Suetonius, Augustus 56.
(9) Livius 40, 51.
第十章 自 由
一 自由の意義 キケローは自由(libertas)を讃美し、それが又ローマの他国に対して誇り得る輝しい徳なることを各所で説いている(1)。曰く「おお麗しの名自由! おお我等の国の非凡なる法(2)」、「これ【自由】に優るものは正に何もない(3)」、「あらゆる国民は隷属状態を堪えることができても、我が国はそれはできない(4)」、「遥かに自由の権に於ては他の諸々の国に擢んずるこの国に於ては云々(5)」と。現実的なローマ人は、ギリシャ人の如くに、現実の社会国家を離れて、単に抽象的に、「欲するがままに生活すること」とか、「各人が欲することを為すこと(6)」とかの定義を与えることもなく、啓蒙思想家達の如く、架空的な自然状態から出発して、同様な定義に到達することもなかつた。ローマ人の自由観念は初から歴史的現実的社会的であり、制限は初からその観念につきものである。そうした自由は流動性弾力性を有して、完成したものもあれば、そうでないものもあるが、ローマ人にとつては、自由観念の極限である奴隷でありさえしなければ、人は自由であり、絶対君主によつて自治権が一切奪われてしまつているのでなければ、国民は自由民であり(7)、一切の遺言処分権を奪われていなければ、彼は自由な遺言権(libera factio testamenti)を持つているのである。自由の観念が、かくの如く、消極的な立場から理解せられるものであつて見れば、自由の観念を探つて見ただけでは、現実な姿は捕えることはできない。具体的な事例について、個々的観察を遂げた後、綜合的な判断を下すことが正に重要である。
(1) Schulz S. 95 ff. 井上智勇「ローマ的自由観念に就いて」日本史研究二号八〇頁以下。
(2) Cicero, in Verrem II, 5, 63, 163.
(3) Cicero, ad Atticum 15, 13, 3.
(4) Cicero, orationes Philippicae 10, 20.
(5) Cicero, de lege agraria 2, 29.
(6) Aristoteles, politica 6, 2, 7; 5, 9, 22.
(7) Schulz S. 95.
二 公民権 第一に、自由は公民権に関する。キケローが「充分の権力(potestas)は政務官に、充分の権威(auctoritas)は第一人者達【元老院議員】の意見の中に、充分の自由(libertas)は国民の中に存すると云うように云々(1)」と云つている場合の国民の自由とは、かかる国家の政治に関与する公民権的自由のことであり、具体的には民会の表決権(ius suffragii)のことである。然しながら、この領域に於ては、他の箇所に於て説くが如く(2)、権威主義が余りにも圧倒的で、むしろその自由が極めて制限的であることが却つてローマの特色と云わねばならぬ。
(1) Cicero, de re publica 2, 33, 57.
(2) 一九一頁以下。
三 市民的自由 第二に、自由は所謂市民的自由に関する。この領域に於ても、なるほど今日基本的人権中に数えられている諸々の自由権について、国家は濫りに侵すことはせず、相当広範囲にわたつてこれを尊重する態度に出ているが、この自由を法律を以て、国家に対して、国家を拘束する憲法上の権利として主張することを国民に認めると云う考方は、存しないと云つてよい(1)。ここに於ても、ローマ国の権威主義はそうした法律上の担保までを与えるに至らしめなかつたのである。以下にそれ等自由の若干のものについて考察して見よう。
(1) Schulz S. 110.
(1)自由身分、国籍の自由(憲法二二条二項参照) キケローは云う、「然し、自分は汝に質問する。汝もし国民が、自分が汝の奴隷となり、又は同じく、汝が自分の奴隷たれと命令した場合に、その命令は有効で確認せられたものと汝は考えるか。それが無効なことぐらいは、汝も認めるだろう。第一に、国民が命令したものは、必らずしもすべてが有効たるべきではないと云うこと、この点は汝は譲歩するであろう(1)」と。又云う、「何人も自己の意に反して、国を変えられることもなく、意に反して、国に止まることもないことは、既にロ—マ国民の最初の始まりより、我々祖先の定めた法であるが、おお、いかにも立派で、神の啓示である。けだし、これ等の原則は、各人自身がその権利を保持するにも、喪失するにも、それを決定する主である、と云う我々の自由の最も堅固な基礎だからである(2)」と。更に云う、「我々の祖先は、市民権(国籍)と自由に関して、時日の力も、政務官の勢力も、判決も、最後には全ローマ国民の権力——これは爾余のものの中にあつて、最大のものであるが——も揺がすことのできないような法を制定した(3)」と。個人の意思に反して、自由身分や国籍を剥奪することは、ただ刑罰としてのみ認められる、国籍離脱の自由は何物と雖も妨げることはできないと云うことについてだけは、ほとんど基本的人権とも称すべきほどの心意気がこれ等の言の中に感ぜられる。
(1) Cicero, pro Caecina 33, 96.
(2) Cicero, pro Balbo 13, 31.
(3) Cicero, pro domo 30, 80. Jhering II S. 60 Anm. 45 (五号一三八頁註四五).
(2)居住移転の自由(憲法二二条一項参照) ローマ人の間で最も関心の深かつたのは、移転の自由よりは、現在の居住地に止まる自由であつた。祖先の地は祖先の霊の憩う地であり、そこから離れることは、自己の宗教を失うことであつた。ローマ人にとつては、天国は何処にあつても求められると云うものではなかつた。従つて、居住の自由を制限する追放乃至流刑は極めて苛酷な刑罰であり、死刑にも劣るものではなかつた(1)。そうした環境に於ては、住居の自由と同様、居住の自由も保護せられていた。ローマ領内の全部又は一部に、無期限又は一定期間滞在することを禁止することは、非ローマ市民に対しては、何時の時代にも広汎な範囲で行われたが、ローマ市民に対しては、刑罰又は軍事上の強制措置として行われた場合を除き、ほとんどなく、キケローも、紀元前五八年執政官Gabiniusがローマ市民Lamiaに対して、ローマ市の退去を命令した事件に対して、「そのようなことは、その時以前にはローマの市民の何人にも発生したことはなかつた(2)」と称している。移転の自由を制限した制度は、ビザンチン期に至つて出現した。土着農夫制(colonatus)である。彼は自由人であつて、婚姻能力も財産能力もあるが、移転の自由を失い、耕作地から移転することができない(3)。自由の精神を失つた同期の一現象である。同じくキリスト教の公認後は、異端者は大都市及びその周辺一〇〇マイルの滞留を禁止せられ、或いは故郷の土地に追い帰されているが(4)、これはむしろ一種の刑罰である。
(1) Fustel de Coulanges, La cité antique(Bibliothèque d'Histoire)28 éd. 1924 p. 233 ss.; Jhering I S. 228, 287. 田中周友「ローマ帝政時代に於ける居住制限の刑の観念」論叢四六巻六号。
(2) Cicero, ad fam. 11, 16, 2. Mommsen, Staatsrecht I S. 155.
(3) 拙著、上五六頁。
(4) Mommsen, Strafrecht S. 604.
(3)職業選択の自由 第二期までに職業選択の自由を拘束したのは、元老院議員に対して商業を禁止したのが、おそらく唯一の例であろう(1)。ビザンチン期に至つては、その社会経済事情を反映して、職業は世襲化し、農奴の子は農奴、船員の子は船員、パン屋の子はパン屋となる外道はなくなつた(2)。
(1) Livius 21, 63(一定以上の大ききの船を所有することを禁止した。海上貿易を禁止するためである). 村川堅太郎「羅馬大土地所有制」(日本評論社、社会構成史大系)九頁。
(2) 拙著、上六九頁。
(4)結社の自由(憲法二一条参照) 十二表法は公法に触れない限り、定款作成の自由を認めている。定款作成の自由は団体結合の自由を意味する。共和政末社団の政治的活動が国家の安寧秩序と相容れなくなつたので、幾多解散命令があつた後、紀元前七年のIulia法は、古の自由設立主義を廃止して、許可主義を採るに至つたが、下層社会人の唯一の社交クラブでもあつた埋葬社団については、再び自由設立主義に復帰した。職業が世襲化したビザンチン期には、職業社団への強制加入が厳命せられるに至つた。かくの如き方法によつて、国家は職業人に統制を加え、特に徴税を容易ならしめようとしたのである(1)。
(1) 拙著、上六九頁、七一頁。
(5)信教の自由(憲法二〇条参照) ローマの宗教(1)は、古代宗教の一般的傾向と軌を一にして、国家宗教であり、国民感情の理念的反映であり、祭祀の形式をとつた祖国精神の発露である。従つて、ローマ国がローマ国民にローマの信仰を要求し、これに適応する態度を要求することは当然である。Tertullianusの云う如く、「ローマの神を尊敬しない者はローマ人とは解せられない(2)」。かくの如き人間は、イェーリングの云う如く、「ローマ国とローマ精神からの脱落」者に外ならない(3)。然しながら、他方ローマ領土の拡張は、必然的にローマの神の拡張を伴わざるを得ない。ラティウムの神はローマの神となり、イタリアの神はローマの神となり、ギリシャの神はローマの神となつた。それは元老院の同意を得て、政務官が正式に移入することもあれば、民族の宗教感情の同一性故に、ZeusがIupiterと同一化せられたように、自然に外国の神々がローマの神々と同一視せられる過程をとることもあつた。ギリシャ以外の外国神になると事情は異つて来るが、ローマの外国に対する寛大さ——「ローマ国民の寛大さ」(clementia populi Romani)とは紀元前二世紀以来合言葉のように云われる言葉である(4)——は、外来宗教に対しても同一であつた。エヂプトのIsis、シリアのdea Syria、ペルシャのMithraがローマ・イタリアに侵入しても、ローマの態度は黙認的で、ただイシスの祭祠をカピトーリウムにいれなかつた程度のイントレランスを示したに過ぎなかつた。又それ等の新宗教が多神教である間は、たいした問題はなかつた。外国神の信仰と、ローマ神の信仰とは相排斥せず、両立し得たからである。帝政時代には事実上地方の宗教は、ローマ宗教に調和し得る限り、ローマ人の何人にも許可せられていた。然しながら、ユダヤ教やキリスト教のような一神教になると事情は異る。そこには最早容赦はなかつた。キリスト教に至るまでのローマの宗教政策は右の如くであり、宗教の自由も比較的大幅に認められ、国家との大きな摩擦も見られなかつたが、そこには、国家の安寧秩序を害せず、風俗を乱さないことが固より前提条件になつていた。そのような根本条件に触れる限り、弾圧の手は敢然加えられた。紀元前一八六年のバッカナリアの祭祀禁止の如きは、その最たるものであるが、共和政期にはイタリアの人身供御、帝政期にはガリアのそれを禁止し、ピウスがユダヤ人以外の者に割礼を施すときは去勢と同様に取り扱い、極めて古い時代より後代に至るまで、公式の許可を得ない予言者占星者を弾圧した如きである。コンスタンティーヌス帝によつてキリスト教が公認せられ、ニーカエア以下の宗教会議で信条が確立するや、異教異端は、一般にはそれ自体で必らずしも犯罪を構成することはなかつたが、法律的には極めて不利な地位に貶されていた(5)。
(1) Mommsen, Der Religionsfrevel nach römischem Recht, Gesammelte Schriften III S. 389 ff.; Strafrecht S. 569 ff.
(2) Tertullianus, apologeticum 24.
(3) Jhering II S. 138.
(4) Schulz S. 143.
(5) 詳細はMommsen, Strafrecht S. 601.
(6)財産権の自由(憲法二九条) 法律の国では、少くとも共和政や帝政に関する限り、歴史の伝えるところによれば、国家は小心翼々として、個人の既得権を犯さないように注意し、これに損害を与えても、常に補償の問題を念頭に置いていた。イェーリングに従つて、共和政時代の若干の実例を拾つて見よう(1)。兵士となることは、ローマ国民の栄誉であつて、奴隷にはその資格がない。然しながら、国家存亡の秋に当つては、これをも軍旗のもとに召集する必要があつたが、その場合には、主人に完全にその値を払つている(2)。奴隷が国家のため、例えば陰謀を通告し、或いは勇敢な行為があつたような場合には、褒賞として自由身分の取得を認められたが、その場合も同様であつた(3)。所謂ヌマの書なるものが発見せられたとき、これを禁書とするため、元老院が焼却を命令したが、その場合にも発見者は補償を受けている(4)。公の道路や工事の施設に必要な建設資材の収用は、規定どおりに価格を支払つて、始めて行われた(5)。土地の公用徴収は極めて控目で、個人の権利の尊重に汲々としていることはさきに述べた(6)。公道と水道の工事のため、その近隣の家が倒壊の危険に曝された場合には、家の価格が与えられた(7)。饑饉に際しては、県地に人を派し、穀物を任意に第三者に売却することを禁止して、専ら買い集めに努力することが行われたが、固より妥当な価格を定めることは前提要件であつた(8)。国家窮乏の秋、婦人も自分の金や装身具を献納して、アポルローの神への聖水盤を作り、その自発的行為は全市民を感動せしめたが、戦勝後、捕虜の公売代金で償還せられている(9)。戦争勃発のため、国家が所定の支払期日に債権の弁済が不能となつた場合にも、国有地を以て弁済に代え、後日国庫の財政状態が改善せられたときに、所定価格でその国有地を返還すべき旨を約している。リーウィウスによれば、これは「公平と実用の中庸」的手段であつた(10)。共和政末期の動乱時代には、政敵の財産を没収してこれを部下に分配するような手段が往々採られたが、帝政に至つては再び落ちつきを見せた。モムゼンによれば、「帝政期のイタリア程私有財産の神聖視された時代はなかつた(11)」。そのような時代に、奴隷が主人の虐待に堪え兼ねて、皇帝の肖像の下に逃れて庇護を求めたとき、皇帝アントーニーヌス・ピウスは、単純に主人権を奪うことはせず、第三者への売却を命令した。その決定に曰く、「奴隷に対する主人の権力は確かにこれを削減すべきものに非ず、又何人の権利と雖もこれを剥奪すべきものに非ず。然れども虐待、飢餓もしくは堪え難き迫害のため、適法に哀訴する奴隷に対して救済を拒否せざるは、むしろ主人なるものの利益なり(12)」云々と。
(1) Jhering II S. 72 ff.(五号一四六頁).
(2) Livius 22, 57.
(3) Valerius Maximus 5, 6, 8; Livius 32, 26.
(4) Livius 40, 29.
(5) Frontinus, de aquaeductu 2, 125.
(6) 一五二頁。
(7) Tacitus, annales 1, 75.
(8) Jhering II S. 73(五号一四六頁).
(9) Livius 6, 4.
(10) Livius 31, 13.
(11) Mommsen, Gesammelte Schriften V S. 601. 村川堅太郎、前掲(一五九頁註1)一六頁。
(12) D. 1, 6, 2 Ulpianus=In. 1, 8, 2.
(7)住居の自由(憲法三五条) ローマの家は単なる人間の住居に止まらず、祖先の神々の安息所である。これが不可侵に対する市民の感情は極めて厳粛である(1)。政敵に蹂躙せられた己が家を回復したとき、キケローは云う、「市民各自の家宅を措いて、更に神聖なもの、更に宗教心に密着しているものに何があろうか。そこには祭壇あり、そこには火竃あり、そこには家神在し、そこで祭祀が行われ、典礼儀式が挙げられる。この逃避所はすべての者に対して神聖であつて、何人たりともそこより拉致せられることがないと云うのが神法であるほどである(2)」と。実にローマ人にとつては、家は単なる寝食の場所、財物の置場、妻婢の作業所のみではなくて、神聖な礼拝堂、諸神の社祠である。従つて、十二表法も民事裁判の証人喚問手続に関し、証人たるべき者の門前で、大声で召喚の事実を告ぐべき旨を規定し(3)、公的召喚も門前で角笛を以て呼ぶことを要した(4)。古典時代に於ても、「各人の最も安全な逃避所、隠れ場」たる家宅より法廷に召喚する行為は暴行と考えられて、単なる私法上のiniuriaに止まらず、Cornelia法によつて、暴力を以て家宅を侵害する公犯罪として、厳罰に処せられ(5)、刑事上の逮捕に際してさえ、犯人の家宅に侵入することは、習俗違反の叫びが強かつた。キケローは云う、「汝はビブルスを家宅より暴力を以て引行するがため、使丁を派遣し、汝が護民官であつた間に、私人には常に保持せられてきたもの、即ち家宅への逃避〔権〕を、執政官には存することができないようにしたのではないか(6)」と。さは云え、裁判の必要上、家宅捜査をすることは、固より認められている。盗品捜査については、十二表法に規定があり(7)、政務官による刑事裁判でも、家宅を捜査して書類を押収したし、後の弾訴式訴訟手続でも、訴追者は被疑者又は第三者の家宅に赴き、公式文書、会計簿、事務上の文書の提出を要求することができることを規定した法律がある(8)。但しこれを拒絶した場合に、いかなる措置が採られたか、家宅に侵入して押収ができたかは明らかでない(9)。
(1) 拙稿「厳格市民法に於ける羅馬家族法の研究」国家四二巻一一号一二二頁。
(2) Cicero, pro domo 41, 109.
(3) 二表の三(末松謙澄訳二二一頁)。
(4) Varro 6, 91.
(5) D. 2, 4, 18 Gaius; D. 47, 10, 23 Paulus. Mommsen, Strafrecht S. 793.
(6) Cicero, in Vatinium 9, 22. Mommsen, Strafrecht S. 49.
(7) 八表の一五(末松謙澄訳二八九頁)。
(8) Mommsen, Strafrecht S. 418.
(9) Jhering II S. 160.
(8)人身の自由 (a)逮捕(prensio)と監禁(abductio in vincula, carcerem)(憲法三三条、三四条参照) 逮捕監禁の権は命令権(imperium)を有する政務官及び護民官がこれを有する(1)。民事上でも、既判決者及び認諾者に対しては、債権者は同一のことができた(2)。その他の場合で、私人が勝手に逮捕監禁することは、暴力罪(vis)に該当する(3)。政務官護民官のこの権限は自由裁量に属した。法律による制限はない(4)。実行せられた逮捕監禁に対しても、護民官の禁止権(intercessio)を除き、なんら法律上の保護はない。民会への上訴の途は開かれていない。もつとも、民事訴訟上の出頭担保(vadimonium)が、刑事訴訟の場合にも早くから及ぼされたが、逮捕すべきか、担保を受納すべきか、又担保を受納する場合には、保証人の数、保証金の額を幾何にすべきかは、専ら関係政務官の自由裁量にかかつていた。従つて、「最初は保証人を与えない者を獄に投じたが、後には保証人を与えることができる者さえそうした(5)」ような区々な処置さえ行われる余地があつた。
(1) Mommsen, Strafrecht S. 48.
(2) 拙著、下一七四—五頁。
(3) Mommsen, Strafrecht S. 664.
(4) Mommsen, Staatsrecht I S. 154.
(5) Livius 25, 4(前二一二年).
(b)拷問の禁止(憲法三六条) 拷問は自由人については、共和政期には、被疑者たると証人たるとを問わず、禁止せられている。モムゼンはこれをローマ法の最初からの法と云つている(1)。これについては、一の例外的事例も伝わらない。これアテネでも、ロードスでも、「自由人及び市民さえもが拷問にかけられている。これ誠に極めて苛酷である(2)」とキケローが云つた時代のローマの人道主義の現われであつて、欧洲に於てもフリードリッヒ大王が廃止するまで行われ(3)、我が国に於ては明治の初年、文明開化でその非人道性を教えられるまで継続していた——ボアソナードが拷問の呻声を聞いたのは有名な話である(4)——のに比すれば、誇るに足るべき事実である。帝政に入ると、自由人の被疑者、セウェールス以来は証人の拷問の事例が現われている(5)。
(1) Mommsen, Geschichte I S. 157, Strafrecht S. 405.
(2) Cicero, Partitiones oratoriae 34, 118.
(3) 団藤重光「刑事訴訟法綱要」(昭和十八年)二八頁。
(4) 杉村虎一述「拷問廃止とボアソナード氏の功績」法律及政治六巻八号九号。
(5) Mommsen, Strafrecht S. 406 ff.; Schulz S. 141.
(c)残虐刑罰の禁止(憲法三六条参照) ローマ人が残虐な刑罰を嫌悪したのも事実である。トゥルルス・ホスティーリウス王がMettius Fufetiusを処罰するに、四頭だての車二台に身体を縛りつけ、反対の方向にその車を走らせる車裂きの刑を以てしたとき、すべての者は眼をそらしてしまつたと記されているが、リーウィウスはかかる人類の法則を忘れた刑罰が行われたのは、後にも先にもこれがただ一度で、この事件を除いては、「他のいかなる民族もより寛大な刑罰では気にいらなかつたことをローマは誇りとしてよい(1)」と云つている。共和政最後の百年は人道主義思想の旺盛な時代で、死刑廃止を事実上——法律上は然らず——実現していた(2)。従つて、キケローは云う、「自身が自分の執政官在職中に、刑吏をフォールムより追い出し、十字架を〔マールスの〕原より追い出したことを措いて、自分がむしろ望むところの何物が希望せられるであろう。然かし、この栄誉は第一には我々の祖先のものである。クィリーテスよ、彼等は王を放逐した後は、自由の国民の中には王の残虐【さきの車裂きの刑のことを指す】の遺物をなんら止めることをしなかつた。次には幾多の勇士たちのものである。彼等は汝等の自由が死刑の峻厳によつて危険に曝されるのではなく、法律の寛大さによつて包まれていることを欲した(3)」と。「刑吏も、頭の被い【死刑執行のための】も、十字架の名称自身も、ローマ市民の身体からだけでなく、認識から、目から、耳からも去らしめよ。けだし、これ等のものの発生、忍従のみならず、条件、期待、最後には挙示自体が、ローマ市民及び自由人に値しないのであるから(4)」——キケローの言は誠に人道主義の精神に充ち溢れている。そうした雰囲気にもかかわらず、猛獣と戦わせる国民娯楽死刑(Volksfesthinrichtung)のような残酷なものも廃止には至らず(5)、自由精神の滅び行くとともに、死刑も多くなつた。帝政期の初、執政官・元老院の刑事裁判及び皇帝もしくは皇帝代官の刑事裁判では、死刑が執行せられても、むしろ例外現象であつたが、三世紀以後には、死刑は頻繁となり、濫用までせられている(6)。
(1) Livius 1, 28. なお註3参照。
(2) Mommsen, Strafrecht S. 941.
(3) Cicero, pro Rabirio 3, 10.
(4) 同5, 16. Jhering II S. 137.
(5) Mommsen, Strafrecht S. 925 ff.
(6) 同S. 943; Schulz S. 138. ローマの死刑については、瀧川幸辰「羅馬の死刑」(「刑法史の或る断層面」昭和八年所収)。
(d)被告訊問の禁止(憲法三八条参照) 共和政末出現した常設査問所(quaestiones perpetuae)に見える弾訴式訴訟手続に於ては、私人たる訴追者と被疑者とが全く同一の地位に立ち、裁判官と審判人とが公正な第三者の地位に立つて、裁判をする形を採るが、ここでは訴追者も、裁判官・審判人も被疑者を訊問する権利はない(1)。即ちここでは「自己に不利益な供述を強要されない」(憲法三八条)だけではない。一切供述を求めることはできないのである。証人は訴追者と被疑者が交互に質問するが(2)、裁判官も審判人も証人を訊問することはできない(3)。帝政時代に入ると、査問所の裁判でも、被疑者の訊問が行われ(4)、三世紀末にはこの弾訴式手続自体も消滅した如くである(5)。
(1) Mommsen, Strafrecht S. 408.
(2) 同S. 431.
(3) 同S. 422.
(4) 同S. 422, 430.
(5) Schulz S. 141
(e)法律の遡及的適用の禁止(憲法三九条参照) 法律が過去に遡つては適用せられないこと(1)は、通常法律中に明言せられる。例えば、「ローマ市民にして、この法律が提案せられたる後(post hanc legem rogatam)遺言を為さんと欲する者は云々(2)」、「何人も今日より後(posthac)悪意を以て知りつつ、淫蕩、姦通を行うことなかれ(3)」の如し。キケローのウェルレース反対論には、「いかなる法律にも、過去〔の行為〕は問責せられていない。——尤もその本来の性質上、余りにも犯罪的かつ涜神的で、たとい法律が存在せずとも、全力を尽して禁圧せられるような事件でないかぎり」として、余りにもひどい目にあまる犯罪については、遡及的適用を承認している(4)。因みに民事に関しては、「Atinia法にせよ、Furia法にせよ、Voconia法にせよ、その他あらゆる法律にせよ、その中には、『その法律〔制定〕後』、国民が使用すべき法が定められているのを見る」として、例外を認めていない。尤もこの原則には二三の例外があつた。例えば流質を禁止したコンスタンティーヌス帝の勅法(5)、利息の制限を新に定めた儒帝の勅法(6)の如きものには、明文を以て、過去の行為にも適用せられている。然しその数は多くはなく、原則は、「法律及び勅法は将来の行為に形式を与うるものにして、過去の事実に遡つて関係するに非ざるや確かなり(7)」であつた。
(1) Jhering II S. 77 (五号一四八頁); Schulz S. 156; Windscheid-Kipp, Pandekten I S. 110--1.
(2) D. 35, 2, 1, pr. Ulpianus(Falcidia法の冒頭文).
(3) D. 48, 5, 13 Ulpianus(姦通に関するIulia法の文言).
(4) Cicero, in Verrem II, 1, 42, 108.
(5) C. 8, 34, 3 Constantinus a. 326.
(6) C. 4, 32, 27, pr. Iustinianus a. 529.
(7) C. 1, 14, 7 Theodosius a. 440: leges et constitutiones futuris certum est dare formam negotiis, non ad facta praeterita revocari.
以上の考察によれば、第二期に於ては、国民の自由は相当の範囲に於て事実上承認せられたが、第三期ビザンチン期には、これを奪う暗黒面の増加したことは否認し得ない。イェリネックは、ビザンチン国家を以て、「国家に対しては個人は全く独立の存在を有せずといふの語が該当し得べき唯一の国家」であり、「西欧諸国の歴史に於て個人に対する抑圧の大なりしことは未だ此の時代の国家の如く甚しきはなく」、「個人は僅に保護甚だ不完全なる私権を有するに止り、国権に参与することもなく又国権に対する自由をも有せず云々」とまで評している(1)。
(1) 美濃部達吉訳「イェリネック人権宣言論外三篇」(昭和二十三年版)一六九頁。
四 私法に於ける自由主義 第三に、自由は私法に於ける指導原理となつて、統制主義、拘束主義に対立する。第二期のローマに於ける私法的自由主義は紛う方なき存在である。さきに個人主義のところで説いたところが参照せられなければならない外、次の如き問題が考えられる。
既に十二表法は、三個の自由主義を宣言した(1)。曰く「nexum及びmancipiumを為したるときは、言葉を以て言明したるが如く、その如く法たるべし(2)」と。これ契約自由の宣言である。曰く「pecunia及び彼の物の後見に対しlegareしたるが如く、その如く法たるべし(3)」と。意必らずしも最後の点までは明らかではないが、遺言の自由に関することは疑がない。曰く、公法に触れない限度に於ての定款の作成(4)。これ団体結合の自由である。第三の自由は、ローマに於ける団体形成の消極的態度(5)よりして、さして大きな意味はなくなつたが、契約の自由と遺言の自由は、正にローマ自由主義の鮮明な表現である。
(1) Jhering II S. 65(五号一四一頁).
(2) cum nexum faciet mancipiumque, uti lingua nuncupassit, ita ius esto. 六表の一(末松謙澄訳二五三頁)。
(3) uti legassit super pecunia tutelave suae rei ita ius esto. 五表の三(同二四四頁)。
(4) 八表の二七(同二九九頁)。
(5) 一三六頁以下。
(1)契約の自由 契約の自由とても固より制限はある。利息に関しては、十二表法の昔より制限が設けられている(1)。その他広く善良なる風俗の違反(contra bonos mores)として、採り上げられない具体的場合は種々発生する(2)。然しながら、第二期を通じてlaissez faire, laissez passerの国家の無干渉主義、当事者の自治主義は、ローマ法の根本的基調を為すものであつた。キケローは云う、「(古人は)売主に自己の意思で売却することが許されない場合には、売却に非ずして剥奪(ereptio)であると考えた(3)」と。古典法学者は云う、「売買に於て、高いものを安く買い、安い物を高く売り、かくして以て互に欺き合うことが自然法上許されてあるが如く、貸借に於ても法は同一である(4)」と。皇帝は指令して云う、「いかなる量目又は価格を以て業者が葡萄酒を買得するかは、契約者の権限中にあり。けだし、何人と雖も、もし価格又は量目が意に充たざるときには、売却を強制せらるることなければなり(5)」と。詐欺強迫の如き非合法の武器の使用は許されず、又同一資格者として取り扱い得ない未成年者に対しては、取消権を与えて、それだけの考慮は施すが、そうでない場合には、契約の当事者が互に対立する利害関係の擁護に向つて、鎬を削つてわたり合うことは、古典法学者の公平平等観に合し、かかる自由の領域に対し、信義誠実(bona fides)の原則を以て、個々的に修正を加えてはいるが、法の自由無干渉主義は疑うべくもない。法の背後の政府の政策も亦、対外取引にせよ、内部取引にせよ、放任主義を根幹とし、歴代皇帝は重商主義や保護貿易のことは真剣に考えたことはなかつた(6)。然るに第三期ビザンチン期には異なる様相を呈し初めた。曰くディオクレティアーヌス帝の最高物価賃銀法。帝は当時の人知の及ぶ限りのあらゆる物価及び報酬について、種類品等を分つて最高額を定め、これに違反した売主、買主、売り惜みをした者に極刑を以て臨むと云う一大非常統制立法を強行せんとしたが失敗に帰した(7)。曰く債権譲渡に対する一連の干渉立法。例えばアナスタシウス帝は、債務者は新債権者に対して債務額を支払うことを要せず、債権譲渡に於て実際支払われた額さえ支彿えばよいこととしている。かかる債権の譲受人が、自己の強力な社会的地位を利用して、債務者に実力的圧迫を加える弊害を防止し、かつ投機のための債権譲渡を抑圧する意図に出ているのである(8)。曰く儒帝の莫大なる損害(laesio enormis)に対する売主保護法。儒帝はディオクレティアーヌス帝の勅法に修正を加え、市価の半値以下で物を売却した売主に、相手方買主が価を追完しない限り、売買の解除を許している。経済的窮地に追い込まれて、已むを得ず持物を処分するような社会的無力者を保護しようとするものである。
(1) 拙著、上一五六頁。
(2) 拙著、上八二頁。
(3) Cicero, in Verrem II, 4, 5, 10.
(4) D. 19, 2, 22, 3 Paulus. なお「うまく買い入れ、うまく売る」(bene emo, bene vendo)ことを処世の指針としたPetronius(75)中のTrimalchioについて村川堅太郎、前掲(一五九頁註1)九七頁参照。
(5) D. 18, 1, 71 Papirius Iustus.
(6) Rostovtzeff, The social and economic history of the Roman empire 1926 p. 159; Frank, Rome and Italy of the empire(Economic Survey V)1940 p. 295.
(7) 拙稿「ヂオクレチアーヌス帝の最高物価並びに賃銀報酬統制令の研究」国家五八巻八号、六〇巻九号。
(8) 拙著、下三五頁。
(9) 拙著、上一八七頁、拙稿、前掲九号五五頁。
(2)遺言の自由 遺言の自由はローマ人にとつては、実際生活上極めて重大な意味を有していた。共和政のカトーは、彼が生涯中に経験した三つの嫌な思出として、或る婦人に秘密を洩らしたこと、陸路で赴き得べき所を、水路で行つたこと、「一日中無遺言で止まつた」ことをあげている(1)。即ち既に紀元前二〇〇年の頃よりして、普通のローマ人ならば必らず遺言を作成していると云う慣行は確認せられるのであつて、家計簿を几帳面に整頓すると同様、等しく市民の為さねばならぬところであつた(2)。かかる遺言に対しては、立法及び学説はあげてその維持に努力し、その頻繁性を捕えて、他の目的達成のために利用し、頻繁だけに又その解釈が重要問題となり、自由解釈の叫びが強かつた(3)。遺言者の意思の実現を担保するがためには、その秘密性が絶対的に要請せられる。遺言の内容が生前に洩れていては、遺言者の意思の自由は、事実上幾多の障礙を受けざるを得ないからである。これ即ち秘密の遺言書が漸次利用せられるに至つた所以である。秘密の殻の中に閉じこもる限り、遺言者は絶対に安全であつて、生前の公約を裏切つた遺言処分を以て人を欺いても、死んだ後では身に危険はないと云つた悪戯さえ、時には行われた。イェーリングは、これを身の安全が確保せられた時に初めて爆発する地雷に喩えている(4)。遺言の自由を制限する特約違約罰、例えば、相続人に指定しなかつた場合の違約問答契約、遺言を取り消さずとの約款の如きは無効である(5)。生前の相続契約がローマ法では認められなかつたのも、この自由と相容れなかつたがためであろう。固より遺言の実質的内容に至つては絶対ではなく、種々の制限を受けている。共和政末には、卑属、尊属、同父母兄弟姉妹等の近親が、遺言者から受けた額が、もし無遺言相続が発生していたならば、受けたであろうところの額の四分の一にも足らない場合には、その遺言は不倫遺言(inofficiosum testamentum)として取り消され得たし(6)、遺贈の額も制限せられて、最後の段階では、紀元前四〇年のFalcidia法で、少くとも相続財産の四分の一の額は相続人に遺さねばならず(7)、奴隷の解放も、その所有数に応じて最高数が定まつていた(8)。これ等は時代の下るとともに加わつて来た制限であつて、本来遺言を知らなかつたゲルマン法が、ローマ法の影響と教会の喜捨の奨励によつて、漸次所有財産のある程度の遺言処分を認めるに至つた行き方とは、逆の道を歩んでいる(9)。
(1) Plutarchus, Cato maior 9, 6.
(2) Cicero, in Verrem II, 1, 23, 60.
(3) 拙著、下一一八頁。
(4) Jhering II S. 12(三号一三〇頁).
(5) D. 45, 1, 61 Iulianus; D. 32, 22, pr. Ulpianus. Dernburg, Pandekten III S. 124. 拙稿「日本民法相続編の史的素描」法協六〇巻五号一一四頁参照。
(6) 拙著、下一二七頁。
(7) 同、一五二頁。
(8) 同、上五三頁。
(9) 拙稿、前掲(註5)五号七一頁以下、一一号四四頁以下。
(3)相続の自由 市民法の必然相続では、相続人は法律上当然に相続人とせられたが、法務官は相続拒否の利益(beneficium abstinendi)を与えて、彼が相続を拒絶するときは、名のみ相続人として、実質的には相続なきも同然とした。その他の任意相続人及び法務官法以来の相続人は、皆相続人の意思表示を俟つて相続人となり、従つて、相続を強制せられることはなかつた(1)。
(1) 拙著、下一三〇—一頁。
(4)婚姻、離婚の自由 許嫁は古典時代には、破約が自由で、これに違約罰を附しても無効である。但し共和政時代には、問答契約で違約罰を約すると、それに訴権が認められたことがあり、ビザンチン期には、東部法の影響をうけて、許嫁手附(arrha sponsalicia)が認められている(1)。離婚もローマに於ては自由であつた。これを禁止する特約及びその特約を担保する違約罰はいずれも無効である。たとい不法の離婚が戸口総監の譴責となり、諸種の財産上の不利益を生じ、ビザンチン期にはキリスト教の影響により、不当離婚に対する制裁は益々強くなつたが、離婚自体は依然有効であつた(2)。
(1) 拙著、下八三頁、拙稿、国家四三巻一二号九七頁。
(2) 拙著、下八五頁。
(5)職業営業の自由 これに従事する人の自由についてはさきに述べた(1)。これが経営の自由についても、第二期には、属州エジプトに完全な独占事業が行われていても(2)、これに眼をくれた形跡は全然ないし、中世のギルドの如く、営業の自由を拘束することも全然なかつた(3)。第三期に至つては様相は変ずる。その社会経済事情を反映して、職業は世襲化する一方、各職人はそれぞれの職業社団に強制的に加入せしめられて、国家の統制を受けるに至つた(4)。
(1) 一五八頁。
(2) Heichelheim, v° Monopole in PW. XVI 1 S. 176 ff.
(3) Jhering II S. 151; Schulz S. 109.
(4) 拙著、上六九頁。
(6)所有権の自由 所有権の自由は、これが制限をでき得る限り少くし、権利者に広大な自主自治権を与えている点に表現せられている。もとよりローマの所有権を以て無制限義務なき権利とし、所謂所有権の絶対性をローマ法に帰するは(1)、非難の行き過ぎである。公法と私法とを截然区別したローマ法学者は、唯私法問題に没頭する結果(2)、所有権の義務としては、相隣地関係位が登場するに止まり、公法上の義務については、ほとんど触れるところがない(3)。更にローマに於ては、神法(fas)と人法(ius)、習俗(mores)と法(ius)との分化が行われているから、法の面だけを捕えていても、宗教規範、習俗規範から来る制限を見逃す危険がある(4)。然るに中世を通じて、公法私法の区別なく、従つて所有権も単純な私法上の支配権には止まらないゲルマン法系(5)に於ては、公法的義務は当然に所有権の内容に導入せられて、著しく義務思想は明瞭となつている。又自己の恣意を以つて(nach Willkür)物に接する権なる考方(独民法第一草案一八四八条)をローマ法に帰するならば、それも一の噺と評せざるを得まい(6)。更にローマ法上所有権の行使なる限り、絶対に合法と解するならば、これ亦シカーネ禁止の原理の出現を忘れたものである(7)。さりながら、所有権の法律的制限(8)は、ゲルマン法に比すれば固より少い。譲渡禁止や処分権の制限は、共和政時代には、十二表法が係争物を神社に献納することを禁止し(9)、又公有地分配時に一時の例外現象があつた(10)のを除いては、そのことなく、帝政に至つては、アウグストゥスが妻の同意なくして、嫁資として設定されたイタリア不動産を処分することを禁止し(11)、第三期ビザンチン期には、市会議員が官庁の許可なくして、土地又は奴隷を譲渡することを禁止した等の規定が散見するに過ぎない(12)。比較法上その例の多い土地の分割を禁止する規定も、ローマ法にはない(13)。rei vindicatioのオールマイティー性は先きにのべた(14)。当事者自身の処分行為によつて、所有権を身動きならぬ程度に拘束することも避けられている。信託(fiducia)約款は第三者に対抗できず(15)、当事者が譲渡禁止の特約をしても、第二期までは物権的効力は認められていない(16)。所有権を制限する他物権とても、不動産役権については、土地自身に便益を供し、便益を供し得る状態も永続的でなければならぬと云う内容上の制限(17)、人役権については、権利者の死亡による消滅と云う時間上の制限(18)があつた為め、市民法に関する限り、他物権が所有権を麻痺せしめるような惧はなかつた(19)。ただ地上権や永借権は、中世準所有権(dominium utile)とまで概念構成せられた程所有権類似の強力な他物権であるが(20)、これ等は第二期に於ては、主として公法的な行政法の面で問題となつていたに過ぎず、少くとも地上権については、私法上の他物権とはおそらくは解せられていなかつたようである(21)。試みに近代土地解放運動以前に大陸に存した土地の拘束状態と比較して見よ。そこでは余りにもローマ法と大きな対照をなしている。各種の封建法上の上級所有権や、種々の土地負担(Reallast)や、強力な永借権で窒息せしめられ、諸々の物的買戻権(Retraktrecht)で取引の自由は阻止せられ、取引成立時に支払わるべき免許料は軽視できない負担となり、世襲財産として処分のできぬものがあり、分割を禁止せられた土地や、取得のできぬ人があつた(22)。
(1) 例えばGierke II S. 348 Anm. 2, S. 352.
(2) 八〇頁。
(3) Schulz S. 103.
(4) 七一頁。
(5) Gierke II S. 356; Hübner, Grundzüge des deutschen Privatrechts 5 Auf. 1930 S. 245.
(6) Rabel, Grundzüge des römischen Privatrechts in Holzendorff-Kohlers Enzyklopädie I 7 Auf. 1913 S. 433.
(7) 末川博「ローマ法における権利行使に関する原則とシカーネの禁止」(「不法行為並に権利濫用の研究」二五一頁以下)。
(8) 拙著、上一〇二頁以下。
(9) 一二表の四(末松謙澄訳三三〇頁)。これとても、その譲渡行為自体を無効とするものではなく、ただ違反者に二倍の罰金を課するに過ぎない。Jhering II S. 150.
(10) ティベリウス・グラックスの一三三年の法律により、「公有地の占有を一人五百ユーゲラ以下、但し子供ある場合には一人二五〇ユーゲラを加え得、たゞし子供の数に拘わらず一家族の占有一千ユーゲラ以下と限定し、‥‥爾余の占有地は国家が之を手中に収め、羅馬市やイタリア都市の無産者、または充分に土地のない者に頒ち、この分配地は譲渡を禁止し」たが、後「新分配地が譲渡を禁ぜられていたのを改め、之を許可したので、忽ち富裕者は新分配地を買入れたり、口実を設けて収奪しはじめた」。村川堅太郎、前掲(一五九頁註1)一一頁、一二頁。
(11) 拙著、下九二頁。
(12) 船田享二、二巻三六〇頁。
(13) Jhering II S. 150.
(14) 一五一頁。
(15) 拙著、下四四頁。
(16) Mitteis S. 253; Bonfante, Corso di diritto romano II 2 p. 262 ss.
(17) 拙著、上一二五頁。
(18) 同、一二七頁。
(19) この点につきJhering II S. 229 ff.
(20) 拙著、上一〇一頁。
(21) 同、一三三頁、一三四頁。
(22) Hedemann, Die Fortschritte des Zivilrechts im XIX. Jahrhunderts II 1 S. 2 ff.
(7)不法行為に於ける過失主義 不法行為の過失主義(民法七〇九条)も、自由主義の一顕現と解せられる。過失主義は個人の自由な活動を促進する。中世封建社会を脱した後、新社会の新たな展開に当つて、この主義が迎えられたのも、そのためであつた。ただ近代の法源批判研究は、その過失主義なるものが、果して古典時代から存したものか否かを争つている。おそらくは、過失が予見すべきことを予見しなかつたと云う注意義務の懈怠と云うような形では捕えられなかつたにしても、なお責任を負わされるには社会的に批難せられるべき行為であつたことが必要であつて、その意味ではやはり古典時代から過失主義が存在したものと解すべきもののように思われる(1)。
(1) 拙稿「民法七〇九条の成立する迄」国家五七巻四号五五頁以下、拙著、下五頁。
五 法学の自由主義 最後に自由主義精神が、古典ローマ法学者の学風にいかに響いたかを顧みてみよう。彼等は自由奔放な学的活動を好んだ。そして第一に前述の如く、定義を嫌つた(1)。嫌つた原因は、一にはその抽象を嫌う精神から来ているが(2)、一には自由な活動を好んだからでもあつた。第二に制定法の果す役目を然るべき範囲に限定して、他は専ら自己の自由な活動に任ねるべきことを要請した。立法の濫立は法学者の活動を阻害し、往々沈滞空漠を招き易い。法の国に於ては、法の独立化の揺籃時代には、立法は比較的活溌であつた如くであるが(3)、一度独立が完成するや、その出動が適当な場合でなければ、活動を控えていた(4)。例えば利息を制限し、公有地の処分を決定するが如き社会政策を行う場合には、固よりその根幹を定める立法は必要である。又例えばMacedonianum元老院議決(5)の如く、事態が緊迫したとき、Falcidia法(6)の如くポヂティブな数が必要なときの如き場合にも、学説だけに頼ることはできない。そのような必要やむを得ない場合を除いては、常に法学者の自由な規範創造に期待し、全法律の潮流をあげて法学者の指導のもとに押し流し、立法を以て法学者の自由な活動を縛ることはしなかつた。然るに皇帝の勅法が法生活をリードした第三期ビザンチン期(7)には、法学者の自由はなくなつた。たとい自由を与えられても、これを活かす術もなかつた。自由のなくなつた法学は、新しい進化を齎らすことはできなかつたのである。
(1) 一一三頁。
(2) 一一三頁。
(3) 六七頁。
(4) Schulz S. 4 ff. 船田享二「法律思想史」一四九頁以下。
(5) 拙著、上一七八頁。
(6) 同、下一五三頁。
(7) 同、上二六頁。
第十一章 権 威
一 権威の意義 「権威auctoritas又は権威者auctorの概念が、ローマに特有な、ローマ人と切り離して考へることの出来ない、随つてローマ人の歴史と共に古い概念であつて、権威者は、これを約言すれば、他の者が実行しようとする行動のために、或は斯かる行動への決意のために、決定的な且有効な承認を与へる者、随つて斯かる承認について責任を負担する者、といふ意味を有することは、ハインツェの詳しく説いた処である(1)」。ローマ私法に於ては、この語は後見人の助成(auctoritas tutoris)と担保訴権(actio auctoritatis)に於て、極めて我々に親しみのある語である。後見人がその被後見人の行為について「決定的な且有効な承認を与」えて、その行為につき責任を負う行為が後見人のauctoritasであり(2)、mancipatioによる売買に於て、買主が目的物を自己の有にせんと決意するに対して、売主は「決定的且有効な承認を与」えてauctorとなり、それ故に、もしその目的物が第三者によつて追奪せられ、買主が売主に訴訟を通告したのに(auctorem laudare)、売主がこれに応じて買主を擁護することをせず(auctoritatem defugere)、又は擁護するもその効がない(auctoritatis nomine vinci)ときに、二倍の罰金を目的とする訴権が担保訴権(actio auctoritatis)である(3)。かかる「用法における権威の語は、個別的に或特定の行為又は行為への決意が行はれる場合に与へられる承認を意味するのであるが、次いで、この言葉は、斯様に個別的な場合に現実に承認を与へるか否かとは独立に、他の者の行動又は行動への決意のために決定的かつ有効な承認を与へる者の特性を意味するやうになつた。この意味においては、権威は、優越な識見によつて他の者の決意に決定的な影響を及ぼし得べき力であり、随つて、斯かる決定的な影響を受ける者は、権威を有する者がこれを命ずると否とに拘らず、その意見に追随して決意することを自らの義務と感ずる。然も、更に進んでは、或者が何等かの意見を発表すると否とに拘らず、その人格の力によつて他の者が自ら進んでこれに追随する場合において、斯かる人格の力は権威の語によつて表されるに至つた(4)」。それは法律的形式的合理的な力ではなくて、事実的政治的非合理的な力であり、それへの服従は強制的ではなくて、自発的乃至追随的、時には盲目的でさえある。それはよい意味では人格であり、徳であり、信頼であるが、悪い意味では、皮相な人気であり、「顔」でさえある。それは権力者、支配者、目上、選良の行動に対して大きな自由活動を認めて、こまごましたむつかしいことは云わず、広い自由裁量を認めて、その裁量には文句をつけずに黙従する。ハインツェは「ローマ国民の全生活行動は権威に対する感情にひたりきつている(5)」と称しているが、法生活の上にも、極めて顕著な指導原理として現われている(6)。
(1) 船田享二「キケロの国家論とアウグスツスの政体」京城帝国大学法文学会第一部論集第四冊別刷五二頁、同「法律学者の権威と方式訴訟」司法協会雑誌一一巻一号三頁。Heinze, Auctoritas, Hermes 60(1925)S. 348 ff.
(2) 拙著、下一〇二頁。
(3) 同、上一八五頁。
(4) 船田享二、前掲五四—五頁。
(5) Heinze S. 358.
(6) 以下Schulz S. 112 ff.(Auctorität)参照。
二 家族生活に於ける家長の権威 国家の首長皇帝が権威を有するならば、小国家たる家に於ても家長は権威を有する。いな公法上政治上の権威への服従は、家の権威への服従によつて培われ、養われたであろう。「家父が権威を以て家を指導運営した仕方はやがて大きく国家に於て働かされて行つた」と解しても、決して云い過ぎにはならないのである(1)。「盲目的の年老いたアッピウスは、四人の頑健な男子と五人の女子とかくも大きな世帯とかくも多数の隷属者とを支配した。何となれば、彼はその精神を虹のように張り切らせ、決して衰弱して老齢に負けなつたからである。その家族に対して、彼は権威ばかりでなく、命令権をも亦保持した。奴隷は彼を畏れ、子女は彼を敬い、総てのものは彼を愛した。彼の家には祖国の習俗と訓育とが栄えていた(2)」——キケローがアッピウス・クラウディウスについて記すところは、正にローマ家族の典型的のものであろう。ゲルリウスは記す、「中間にあるもの【正しいことでも卑しいことでもないもの】、例えば、軍役に赴き、田園を耕作し、官職に就任し、訴訟を弁護し、妻を娶り、又例えば命令をうけて出向き、又要請せられて来るようなこと、これ等のこともこれに類することも、それ自体は正直なことでも卑しいことでもなく、丁度我々がやつたと同じように、行動自体で或いは賞むべきことともなれば、責むべきことともなる。故にこの種のあらゆる事柄に於ては、父に従うべきものと考えている。例えば妻を娶れ、或いは被告のために訴訟を為せと父が命令したような場合には。けだし、いずれの場合も、その種類自体では正直なことでも卑しいことでもないので、それ故、父が命ずれば従うべきだからである(3)」と。Horatii兄弟の最年長者も、「然れども我等には父あり。その人なくしては、何事を云うことも行うことも許されざれば、我等が父に時間を藉す間、暫く我等の返答を御待ちあらんことを願い奉る(4)」と返答している。ローマの家の窮極的な筋金は法でもきまつている。ただその具体的な生活は、習俗によつて担われていた。その習俗の基本観念は何と云つても、家長の権威であつた。
(1) 祇園寺信彦「古羅馬興隆の因」日伊文化研究一三号一九頁。
(2) Cicero, Cato maior 11, 37. 船田享二「キケロの国家論とアウグスツスの政体」五九頁。
(3) Gellius 2, 7, 18 et 19.
(4) Dionysius 3, 17. 拙稿「厳格市民法に於ける羅馬家族法の研究」国家四三巻一号七五頁。
三 政治に於ける権威 権威思想が政治の上に反映しては、民主政治は行われる余地はない。ローマは遂にデモクラシーを知らなかつた。王政には国民はほとんど政治に関与することはできなかつた。共和政には元老院の権威政治が行われた。アウグストゥスの帝政組織は彼の権威によつて樹立せられた。帝政後期の絶対専制政治では、国民は完全に政治から閉め出されてしまつた。以下暫く説明を敷衍して見よう。
クーリア民会(comitia curiata)が国祖ロームルスに帰せられていて、王政時代からの産物であることは争いがないが、国民がいかような形で、いかような事項について、この民会を通じて国政に参与したか明らかでない。更に平民も当初からこの組織に入り得たかも疑問視されている(1)。共和政時代に入つて、ケントゥリア民会(comitia centuriata)とトリブス民会(comitia tributa)が加わり(2)、平民会議決(plebiscitum)も紀元前二八六年のHortensia法によつて、全ローマ市民を拘束する力を認められた。民会の果す機能は立法、刑事裁判、官吏の選任等であるが、民会の構成も、民会の活動方法もおよそ非民主的である。
第一にcomitia centuriataの構成単位をなし、表決の単位となるcenturiaは、当初の制度では、財産額が一番多い第一階級が八〇、第二階級より第四階級までが各二〇、第五階級が三〇、騎士階級が一八、その他若干の特別職業階級が各一を有し、合せて一九三で構成せられたから、上級階級たる第一階級と騎士階級とが一致すれば、完全に過半数を制することができ、富による政治である(3)。comitia tributaでは、ローマ附近の四つのtribusへは土地を有しない者や被解放者や不名誉者は皆ここに押し込められる結果、極めて多数の人間を擁しながら、表決権は他のtribusと同じく一票しか持たない(4)。頗る不平等である。
第二に民会は理論上全有権ローマ人の民会たる立場を採りながら、実はその趣旨を貫くことができなかつた。民会はローマで開かれ、従つて、地方人はローマに赴かねば表決権を行使し得ない。がそのような立前は、ローマの領土が拡大するに至つては、時代錯誤以外の何物でもないが、この立前は改められず、ローマは遂に代議制を知らなかつた。アウグストゥスは遠隔地の特定者に書面投票を認めて改めようとしたが、通信機関の発達しない当時に於ては、大きな効果は期待できなかつた。従つて、民会は事実ローマ市及びその附近に居住する者の民会であり、ローマがプロレタリア化するに従つて、デマゴーグによつて容易に左右せられ、買収せられる愚民民会と化する傾向は相当強かつた。そうした愚民民会は、やり方によつては操縦もし易かつた。これ亦民会をローマで開く主義を改めなかつた理由でもある(5)。
第三に民会の活動方法は頗る権威を尊重する。ローマの民会では、立法、裁判は政務官の提議に対して賛否を表するだけで、討議もしなければ、原案の修正もできず、自らイニシャティブをとることは固よりできない。政務官の選挙は司会政務官が作成した候補者名簿中の者から選んで行われたが、この名簿に載せるべきや否やは彼の自由裁量に属していた。但し共和政も末となれば、候補届を拒否することは、資格者たる限り、実際にはなかつた。当初は口頭で表決したが、紀元前一三九年のGabinia法によつて官吏の選挙に、一三七年のCassia法によつて謀反罪を除く刑事裁判に、一三一年のPapiria法によつて立法に、一〇七年のCaelia法によつて謀反罪に秘密書面投票が採用せられ、立法では、VR(uti rogas 汝が問うが如し。賛成)又はV(uti)とA(antiquo 自分は現状維持。反対)と記した票のいずれか一つを、刑事裁判ではA(absolvo 自分はゆるす)又はL(libero)とC(condemno 自分は有責にする)又はD(damno)と記した票のいずれか一を投票箱に投じた。官吏の選挙は侯補者の名を記して行われた(6)。屋外で、黙々として政務官に導かれながら表決するローマの民会と、劇場に坐して、興奮の坩堝の中で激論を戦わすギリシャの民会! 我々は容易にギリシャの民会に共鳴を感ずるであろう。然しながら、ローマ人をして云わしむれば、ギリシャの民会はたしなみ(disciplina)のない愚民の集会以外の何物でもない。キケローは云う、「ギリシャのあらゆる国家は開会せられている集会の考なさ(temeritas)で運営せられている。故に、既に自分の意見で打ちのめされ、悩まされきつた今のギリシャは省略して置こう。かつて力と支配権と栄誉を以て栄えた昔のギリシャは、集会の節度なき自由と放縦、ただこの一つの悪だけで倒れたのである。劇場で何も経験もなく、知りもしない無智の人間が共に席についたとき、無用の戦争を企て、煽動的な人間を国家の首脳に置き、最良の価値ある市民を国家から追い出してしまうのが常であつた(7)」と。
第四に政務官の民会の決定に対する態度が頻る権威的である。政務官は進行中の表決を中絶させることもできれば(形勢が自分にとつて悪そうになれば、かかる措置が往々採られた)、更に表決後も、その結果を採用するとせざるとは、彼の自由裁量に属したのである(8)。
形式上主権が国民に在りながら、国政は国民によつては運営せられなかつたとするなら、誰が実権を握つたか。政務官でなければ元老院である。法律上は元老院は単に政務官の諮問機関であり、「元老院が政務官を支配するのでなくて、政務官が元老院を支配する(9)」として、元老院議決をつき返した執政官の態度がおそらく法律上正しいであろう。然しながら、政務官には任期に限りがあつた。又常に軍を帥いて外征に赴き、内政を空にしなければならぬことも多かつた。他方元老院はかつて政務官に就任した有力な先輩によつて占められているし、常にローマにあつて内政にもよく通じている。政務官が元老院に頭を下げざるを得なくなつたのは当然であつた。かくして元老院は事実上その優越的支配を確立するに至つたが、そうした支配の基礎は法的根拠ではなくて、正に権威であつた。合理的なギリシャ人ポリビウスがローマ共和政の特色を国民と政務官と元老院との法律上の権限調和に求め、元老院の権成と云うような非合理的観念は理解できなかつたのに反し、実際的なローマ人キケローは、「権威によつて、指導的な地位を有する混成政体をもつて、理想的な、然も、古への羅馬においてかつて実現された組織とし、堕落した現在の元老たちが、国家の第一人者たる権威を十分に具備する理想的な人物、国家の支配者たる人物に復帰することによつて、羅馬が斯かる理想的な組織に復帰するべきことを説いて、少数者政的な立場をとつた」のである(10)。
(1) Kübler S. 6.
(2) 古典によれば、両制度ともにセルウィウス・トゥルリウス王の創設になつているが、近代の学説では、共和政起源とされている。Kübler S. 11.
(3) Kübler S. 13.
(4) Mommsen, Staatsrecht III 1 S. 185, 436; Kübler S. 16.
(5) Bruns-Lenel S. 332. Kübler S. 66--7. 船田享二「羅馬元首政の起源と本質」二五一頁、田中周友「古代ローマの民会に於ける投票」佐藤論文集、七八二頁。
(6) 田中周友、前掲七九六頁以下。
(7) Cicero, pro Flacco 7, 15. Schulz S. 117.
(8) Mommsen, Staatsrecht III 1 S. 415.
(9) Dionysius 16, 16. Jhering II S. 281.
(10) 船田享二「ポリユビオスの羅馬共和政論」国家四八巻二号三号、特に三号二二頁以下、同「キケロの国家論とアウグスツスの政体」五七頁以下。
アウグストゥスの政治組織は、彼自らもその業績録で説く如く、「その権威によつて、全国民に、したがつて元老院にもまた優越し、すなはち、全国民が自ら進んで服従しようとすることによつて得られた指導的地位に立つた」のである(1)。彼は極力共和政の外観の破壊を気にしつつ、又警戒しつつ、古い皮袋に新しい酒を盛るに努力した。そうした企てを成功させたのは彼の権威であつた。「権威は、アウグスツスにおいて、超自然的な又は超人的な、或は、少くとも、他の者によつては達せられない、特殊な非常な力であり特性であつて、アウグスツスをして、神の使とし、一世の師表として、したがつて指導者としての地位を有せしめるものである。アウグスツスは、その有する権威の故にこれに追随する者から観れば、神に似た、又は神と等しい救済主であり、指導者であり、アウグスツスの語そのものが示すやうに、聖者であり尊者である(2)」。かかる権威の持主が模範を垂れるとき、上の行うところ下これに倣うで、人は皆これに従う。小書附(codicilli)による信託遺贈に法律的効力の道を開いたのは、実に帝であつた。「神聖アウグストゥス帝が彼【小書附作成人】の意思を充たしたところ、後他の者帝の権威に倣つて(auctoritatem eius secuti)信託遺贈を履行した」と法学提要は報じている(3)。そのようにして成立した元首制のもとでは、民会はその影を薄くする一方であつた。官吏選出権はティベリウスの代に形式名目上も元老院にうつり、立法も早期に実質的活動をやめ、刑事裁判も共和政末既に常設査問所(quaestiones perpetuae)によつて圧迫せられて、ほとんど全く消滅していた(4)。帝政後期は、更に前期に於て、皇帝の権威に屈しつつも未だ政治的意義を有していた元老院を無力にして、皇帝の絶対専制政治を確立したのであつた。人民による政治はここに全然影を没した。
(1) 船田享二「羅馬元首政の起源と本質」一六六頁、同「キケロの国家論とアウグスツスの政体」七八頁以下、同「ポリユビオスの羅馬共和政論」国家四八巻三号三五頁以下。
(2) 船田享二「羅馬元首政の起源と本質」一六八頁。
(3) In. 2, 25 pr.
(4) 船田享二「羅馬元首政の起源と本質」二五一頁以下。
四 政務官の権威 政界に活動する者は、権威者たらねばならない。キケローによつて、いかに特に老年の権威ある政治家が讃美せられていることか(1)。曰く「彼(Valerius Corvus)の晩年は、権威益々加はり労益々減じて行つたが故に、中年時代より遥かに幸福であつたのである。権威こそ老年の至上の栄誉であるのだ」、「Lucius Caecilius Metellusには何と大いなる権威が具つてゐたことだらう! Aulus Atilius Calatinusにも何たる権威があつたことだらう! ‥‥あらゆる人々の批評が一致して称讃してゐるからには、彼の権威は正に大いなるものであつたに違ひない。近くは司祭長(pontifex maximus)Publius Crassusを見、又その後は同じ神職を襲うたMarcus Lepidusを見て何と偉大な人物と思つたことだらう。Paullusに就いて、或はAfricanusに就いて、若しくは先に語つたMaximusに就いては、余が言を弄する迄もない。此等の人々には、その述べる意見には勿論のこと、その点頭《うなづき》一つにも権威が存してゐたものである。老年は、殊に世の栄誉(官)を負うてゐる時は、青年の年輩に属するあらゆる快楽よりも価値高き権威を持してゐるものである(2)」と。更にAemilius Scaurusについても、「その点頭一つによつていわば全世界が支配せられる」ことを説き、それが権威によるものなることを説いている(3)。権威の高い政務官に対しては、人民はこれに刑事責任を問うことが事実できない。同一の職権行為について責任を負う同僚政務官でありながら、一は国民から有責判決を受けているのに、他はその権威故に、これを免れるといつた現象さえ歴史に見えている(4)。
(1) 船田享二「キケロの国家論とアウグスツスの政体」五六頁以下。
(2) Cicero, Cato maior 17, 60 et 61 (訳文は岩崎良三訳、キケロー選集「老年に就いて」による).
(3) Cicero, pro Fonteio 11, 24.
(4) Aurelius Victor c. 57. Jhering II S. 290 Anm. 461.
そのような個々的な権威者がいた外、政務官は又一体として権威者であり、政務官の職権行為は、権威主義に基づいて、その自由裁量の範囲が極めて広かつた。戸口総監(censor)と称する官は、各人の財産額を査定して税額を定め、騎士に馬を与えたり取り上げたり、善良なる風俗を乱した者に警告を発して、元老院より追放する等の諸権限を有するが、その名称はそれらの行為を実行するに当り、彼の自由裁量によつて判断するcensereと云う言葉から作られたものである。然かし、かかる自由裁量は他の官にも通ずる性格であつて、敢てcensorに限つたことではない。政務官の懲戒権(1)(coercitio)は、民会への上訴(provocatio)に関する立法の制限の範囲内では、自由裁量に従つて、行使せられた。家の家長が私的躾(privata disciplina)のために、自由裁量に従つて懲戒権を行使したが如く、国の権威者は公的躾(publica disciplina)のために、自由裁量に従つて懲戒権を行使したのである。政務官は、刑を課すべきか、いかなる刑に処すべきか、その刑の量定をいかにすべきかについて、彼の自由裁量に従つて判定した。帝政時代には懲戒権は元老院議決や勅法によつて更に制限を受けたが、なおその自由裁量の範囲は相当広かつた。民会への上訴が行われて、民会の刑事裁判となつても、そこで政務官と民会が裁判するには、自由裁量に従い、有罪か否か、いかなる刑罰に処すべきかに関して、自由な裁定を下した。そこでは「刑法的監督は、個々の外部的行為に向けられたのではなく、‥‥個人をその全人格に於て抱擁し」、犯罪は「審理の対象たる意味」を持たず、「単に審理の契機となる意味」しかなく、「民衆がその考方、感じ方の全体を挙げて鏡となり、犯人はそこに道徳的生活の総計において自己を映じ、国民的本質からの離反の認識に到達せねば」ならなかつた。罰せられるのは行為でなくて、心情、全人格であつた(2)。このような主観主義的刑法に自由裁量主義が結びついていたのである。国民の自由精神の最も旺盛であつた共和政最後の一世紀に、常設査問所が設けられるや、ここでは、その管轄に服する犯罪は各法律で規定せられ、裁判官は法律の規定する刑罰を執行することとなり、罪刑法定主義(nulla poena sine lege, nullum crimen sine lege)は、略々実現せられたと云つてよいが、やがて帝政期に至つて、又自由裁量の広い執政官・元老院の刑事裁判、皇帝の刑事裁判に圧迫せられてしまつた。そうした自由裁量の広い権威主義の裁判も、裁判担当者にその人を得、皇帝の監督が行われるときは、その使命を全うし得たが、第三期ビザンチン期に至るや、腐敗化した刑事司法に於ける自由裁量ほど危険なものはなく、かつては具体的妥当を達成させた主義も、今は怨詛の対象となり、刑事手続は一切を挙げて皇帝の指図に従わねばならなくなつた。民事裁判を司る法務官は刑事事件とは同一でなく、それほど広汎な自由裁量権があつたわけではないが、なお機械的な操作をやつたと解することも誤りである(3)。私人たる審判人に対して、法務官は権威を示す。Gaius(三・二二四)に曰く、「審判人は其の額以下の金額を定めることを得るけれども、多くの場合には法務官自身の権威を尊重して(propter ipsius praetoris auctoritatem)敢て少額の判決を為すことはしない」と。
(1) Schulz S. 118 ff.; Levy, Gesetz und Richter im kaiserlichen Strafrecht, erster Teil, die Strafzumessung, Bulletino dell'Istituto di Diritto Romano 4(1938)p. 57 ss.
(2) Jhering II S. 48(四号一八六頁)。
(3) 船田享二「法務官の訴訟拒絶権」京城法学会論集第一冊参照。Schulz S. 121の云うところは、少しく制限を要するようである。
五 法学者の権威 法学者も亦権威者であつた(1)。その結果「叡智を以て己に威厳を獲得した多数の士は、その叡智自体で人気を博するよりは、法を解答する権威によつて人気を博するようになることに成功した(2)」とキケローは云う。一度法を解答するほどの人間になれば、自ら信頼人気がそれに集り、人皆これに従つて、当初は権威を作り出すに必要であつたに違いない叡智自体は問題にせられなくなつてしまう。アウグストゥスが「皇帝の権威によつて法を解答する権」なる制度を発案したのも、法学者の権威を更に大ならしめるためであつた。即ち法学者の解答も、当初に於ては、形式的・法律的な効力を有せず、法務官や審判人や訴訟当事者は、ただその権威を認めてこれに従つたのであつた。漸くハドリアーヌス帝に至り、解答権を有する法学者の意見が合するときは、審判人を拘束する法律の効力にまで進んだのである(3)。ローマ法学者の解答には往々解答の理由が示されていない(4)。権威者の採る態度として、容易に理解できよう。Celsusの如きは、遺言書を書いた人間は、その遺言の証人になれるかとの諮問に対して、「お前が自分に諮問していることが何のことであるかを自分が了解しないのか、或いはお前の諮問がおよそ馬鹿げているかどちらかである(5)」の如き、ぶつきらぼうな解答を与えている。
更に法学者の権威は、法学者相互間に於ても物を云つている。有力な学者が或る意見を表明していることは、その学説の正当性を裏付けるかにさえ見えている。学説彙纂の中には、自説と同一の他の学者を援用しているのがいかに屡々見えることか(6)。あたかも「理由の代りに、権威が推進している」かの如くである(7)。キケロ—はこの法学者が他人の権威をかる援用マニアを揶揄的に、法学者Trebatiusへの手紙に書き添えている。この手紙は、トゥレバーティウスがカエサルに従いガリヤに赴いたとき、この機を逸しては、カエサルに近づく機会がなくなる旨を書き送つているのであるが、最後に「Q. Corneliusの見た所も同じである。丁度貴方方が貴方方の書でなさると同じように」と、からかいの調子で書き添えているのである(8)。
(1) 船田享二「法律学者の権威と方式書訴訟」司法協会雑誌一一巻一号、同「キケロの国家論とアウグスツスの政体」五五頁以下。
(2) Cicero, de oratore 1, 45, 198.
(3) Gaius 1, 7.
(4) 八五頁。
(5) D. 28, 1, 27 Celsus: non intellego, quid sit, de quo me consulueris, aut valide stulta est consultatio tua.
(6) Ehrlich, Grundlegung der Soziologie des Rechts 1913 S. 214; Schulz S. 126.
(7) Schulz S. 125.
(8) Cicero, ad fam. 7, 17: hoc, quemadmodum vos scribere soletis in vestris libris, idem Q. Cornelio videbatur. Schulz S. 126.
六 弁護人の権威 最後に弁護人も亦その社会的地位に於ては、法学者に匹敵するものもいたが、「共和政末期の裁判の腐敗したときには、よい弁護人を得ることだけで、往々既に勝訴を意味していた(1)」と云われる。この場合に於ても亦、その権威が物を云つていたに違いないことは、間違いない事実であろう。
(1) Wenger S. 84 Anm. 26.
第十二章 簡単明瞭
一 概説 ローマ人はその生活に於て、単純さを愛し、整頓した秩序を尊ぶ。詩人ホラーティウスが、「要するにお前の欲するものには、単純単一がなけねばならぬ(1)」として、単純さを詩作の窮極原理として説いたことは、詩作に関するだけではない。法律に於ても同じである。固よりローマ法にも錯雑不明瞭な点は存する。その保守伝統主義の結果、新しいものと古いものとが共存していることはその一つである。又法学者の研究方法がカズイスティックなるがため、その説くところが、いかなる根本原則、いかなる基本原理の表現なのか遡つて考えて見なければならぬことも、簡単な理解に妨げとなる。更に特に法典編纂人が法学者の著書、皇帝の勅法をそのままに伝えず、多分に改廃削除挿入を行つていることが、明確に捕え得ない大きな原因となつていることは、近代の法文批判研究の明らかにしているところである(2)。それ等の事情が存するにかかわらず、なおローマ法が簡単明瞭なことは否定し得ない。そのことは、他法特にゲルマン法との比較対照によつて、具体的に明らかにせられる(3)。
(1) Horatius, de arte poetica 23: denique sit, quod vis, simplex dumtaxat et unum.
(2) Schulz S. 46. 船田享二「法律思想史」一九六頁。
(3) 以下Schulz S. 47 ff.(Einfachheit).
二 法の形式と概念の数の節約 簡単明瞭性の顕現として、第一に、法の駆使する形式も概念も、数に於て少く、「でき得る限り少いものででき得る限り多くのものをうちたてる」ことに努力している。「取引は二十の形式よりも二つの形式をずつと容易に駆使し得るし、法学は、そうした形式の数が少ければ少いだけ、それだけその理論を一層鋭くかつ厳密に作り上げることができる(1)」と云い得る。このことは、又ローマ法の保守伝統主義とも関聯を持つことである(2)。銅と衡を以てする行為(negotium per aes et libram)や、法務官の面前に於ける訴訟の形をとる行為は、さきに述べた(3)。問答契約(stipulatio)は債権法の領域に於ける花形役者である。ローマ法では、無方式の合意(pactum)はそれ自体では訴権がないと云う立場をとつたため、通常一般の合意に拘束力を持たせるには、問答体の問答契約の形を採ることを要したが、その外、旧債務を転換するための更改にも、債権担保のための保証、違約罰にも、代理の欠缺を補うための参加要約(adstipulatio)にも、連帯債務の設定のためにも利用せられ、法務官が法務官法を形成するにも、屡々問答契約の締結を強制する形(stipulatio praetoria)を用いた(4)。
(1) Jhering II S. 17(三号一三二頁).
(2) 一三一頁。
(3) 一三一頁、一二九頁。
(4) 拙著、上一七五頁。
形式の数に於て少いのみならず、概念の数に於ても節約の傾向にある。通常行われているように、locatio conductioを分つて、賃貸借(locatio conductio rei)と雇傭(locatio conductio operarum)と請負(locatio conductio operis)の三に分類することは、ローマ法の最後の発展段階に於ても到達しなかつたところで、ローマ法では常に統一的概念であり、かかる三分類はオランダのVoetに至つて、初めて見えるところとされている(1)。賃貸借の中でも、収益賃貸借(Pacht)と使用賃貸借(Miete)の区別はローマ法にはなかつた。かかる概念の大幅は、特に不法行為、準不法行為、犯罪等に顕著のようである。iniuriaは、その最後の発展段階では、有形的な身体傷害、無形的な名誉の侵害、暴力による家宅侵害、海洋海岸の公共的使用の妨害、窃盗の未遂等を含み(2)、正に現行法の傷害の罪、名誉に対する罪、住居を侵す罪、往来を妨害する罪、窃盗の罪が含まれる。暴力罪(vis)の観念も、Mommsenに従えば、(1)多衆聚合して、武器を携え、暴行又は強迫を加えて、公の行為を為さしめ又は為さざらしめ、葬儀埋葬を妨げるが如き騒擾行為。(2)強盗。(3)(a)災厄又は騒擾時に乗じて行われた財産の侵害、(b)違法社団の結成、(c)「他人の訴訟に不当に関与して、有責判決より得た利益を共同分配する」行為。(4)官憲力の濫用、(a)権力を濫用して、市民を逮捕拷問懲戒し、(b)無断で新税を徴収し、(c)徴税請負人が徴税権を濫用して、義務者の財産権を侵し、(d)個人の意に反して、共同体又は個人に金銭の供与を不法に約せしめるが如き行為。(5)人身の略取、監禁、強制猥褻、強姦。(6)外国の使節に対する暴行名誉侵害。(7)重流刑者の庇護(8)墓の侵害。(9)債務者の意思に反する自力救済、担保の徴収の如きものが含まれている(3)。現行法の観念からすれば、極めて多数の犯罪観念を包含するが、それにまして我々の注意を引くものは、本来の暴力行為と関聯しない場合が頗る多いことである。同じく種々異るタートべスタントを抱擁する不当利得(condictio)観念も亦、おそらくローマに於てのみ形成し得た観念であろうとシュルツは説いてい(4)る(5)。
(1) 拙著、上一八九頁。
(2) 拙著、下一二頁。
(3) Mommsen, Strafrecht S. 657 ff.
(4) Schulz S. 48.
(5) 異つた関係を同一の訴権で律しようとする傾向については、なおEhrlich, Grundlegung der Soziologie des Rechts 1913 S. 214.
三 統一的求心的傾向 第二に、人、物、制度、関係に対する法的取扱は、統一的、求心的である。政治に於て、ローマに於ける統一とドイツに於ける分裂が大きな対立を為している如く、ローマ法に対するゲルマン法の対立は、往々求心的方向と遠心的方向として理解せられ、後者に於ては創造的形成力は周辺に、前者に於ては中心に向つて投ぜられていると云われる(1)。ドイツ法が都市人に都市法を、地方人には地方法を、騎士には封建法を、家人には家人法を、領民には庄園法を、商人には商法を、僧侶には寺院法をと云うが如く、各生活圏に応じて、それに則したそれぞれの法体系を建て(2)、我が固有法が幕府法と庶民法を対立せしめたのとは反対に、ローマ法は抽象的な人を基礎として、統一的な民法をしいた。あれほど経済的活動が盛であつても、商法が民法の側に存すると云うことはローマにはなかつた。ただ僅かに銀行業者には、利息契約の方法や引受契約や相殺等につき、船主、旅館の主人、厩の主人等には保管責任と使用者の行為による責任につき、船長、支配人にはその代理権につき特殊規定はあつたが(3)、商法の形成には至らなかつた。物についても、ゲルマン法系に於ては、動産物権法と不動産物権法と別々の物権法が説かれているほどその区別が重要であるが(4)、ローマ法では、物の自然的性質より生ずる区別の外、ほとんど重要な法律的意義を有せず、我が現行民法が物権の設定移転に(一七七・一七八条)、即時取得に(一九二条)、無主物先占に(二三九条)、抵当権の設定に(三六九条)差別を設けているのは、いずれも非ローマ法的で、ゲルマン法系統の起源と称すべきである(5)。共有にしても、相続によろうが、組合によろうが、偶然の事情によろうが、一種の共有があるのみで、ドイツ法の如く共有と合有との区別がない(6)。占有質と非占有質即ち抵当も、「ただ言葉の響きを異にするのみ」と称しているほどで、大きな本質的差異を認めていない(7)。ゲルマン法に於ける夫婦財産制の「ラビリンス」は余りにも有名であり、ドイツ民法もそのカオスから、五種の形態を選び出すのに一大苦心を要したが(8)、ローマ法では、手権(manus)を伴えば、妻の完全な財産無能力主義、伴わなければ、完全な夫婦別産主義で、これに嫁資(dos)と婚姻故の贈与(donatio propter nuptias)が、婚姻を機縁として、契約によつて設定せられるだけで(9)、頻る簡単である。相続に於ても、ゲルマン法が財産の種類、性質、出所に応じて、それぞれの財産団について、個別的相続(Sondersukkzession)を認め、頗る煩雑な形態を採るに反し、ローマ法では、全財産がなんらの区別なく、総括的に承継せられる一般的相続(Generalsukkzession)を認めるのみで(10)、極めて簡単である。
(1) Jhering II S. 121(七号一〇二頁).
(2) Gierke, Grundzüge S. 180.
(3) 拙著、上七頁、二一二頁、下一九頁。
(4) Jhering II S. 108(七号九七頁).
(5) 拙著、上七五頁。
(6) 拙稿「日本民法物権編の史的素描」中田論文集二八一頁。
(7) 拙著、下四六頁。
(8) Gierke, Grundzüge S. 279.
(9) 拙著、下八九頁。
(10) 拙稿「日本民法相続編の史的素描」法協六〇巻二号四九頁。
そうとは云え、ローマ法にも、同一目的を達成するために数種の手段が存し、一個の制度に数種の区別があり、その区別は異つた原則に支配せられていて、上記の原則に反するものがある。これはローマ法に於ける保守伝統主義の結果、新旧制度が重りあつて併存するためである場合が極めて多い。儒帝法に於ては、これらを整理統合する傾向が強く、その限度に於ては、儒帝法は古典法に比して遥かに簡単となり、それだけ又普遍性を備えて、後代のローマ法継受に資することとなつた。儒帝法では、被解放者の種々のカテゴリーが消滅し(1)、res mancipiとres nec mancipiの区別の廃止、mancipatioとin iure cessioの廃止に伴つて、市民法上の所有権と法務官法上の所有権の区別もなくなり(2)、イタリアの地と県地の区別がなくなり(3)、使用取得(usucapio)と長期間の前書(praescriptio longi temporis)が融合して、一個の取得時効制度が成立し(4)、イタリア生えぬきの借料地に於ける権利(ius in re vectigali)が県地起源の永借権(emphyteusis)に吸収合併せられ(5)、占有保持の訴権が動産でも不動産でも要件が同一となり、占有回復の訴権中単純暴力と武装暴力との区別がなくなり(6)、瑕疵担保に関する按察官の解除権と減額訴権の選択が、市場の奴隷家畜の売買のみならず、あらゆる場所のあらゆる物の売買に拡張せられ(7)、本来の委任(mandatum)が財産事務管理(procuratio)を吸収し(8)、他人の債務の弁済約束(constitutum debiti alieni)が銀行業者の引受契約(receptum argentarii)を合併し(9)、保証のための問答契約(adpromissio)中誓約(sponsio)と信約(fidepromissio)の廃止によつて、信命(fideiussio)一本建となり(10)、物的担保方法としての信託(fiducia)が消滅し(11)、手権(manus)の廃止により、妻の二種類は消滅し(12)、法定相続が完全な血族主義の新勅法一一八号及び一二七号によつて整理せられ(13)、取得能力(capacitas)の廃止により、相続能力と取得能力と云う煩雑な区別がなくなり(14)、遺贈(legatum)と信託遺贈(fideicommissum)とが融合して同一物となり、従つて固より遺贈内部の区別も消滅し(15)、方式書訴訟が不使用に帰し、通常訴訟手続と特別訴訟手続の区別が廃止せられて、後者の一本建となり(16)、訴訟代理人中代訟人(cognitor)が消滅して、委託事務管理人(procurator)のみとなつたのは(17)、いずれもこの整理作用、簡易化作用の結果である。
(1) 拙著、上五三頁。
(2) 同、上七四頁、一〇〇頁、一一四—五頁。
(3) 同、上九九頁。
(4) 同、上一一〇頁以下。
(5) 同、上一三四頁。
(6) 同、上一四二頁、一四三頁。
(7) 同、上一八七頁。
(8) 同、上一九八頁。
(9) 同、上二一二頁。
(10) 同、下三八頁。
(11) 同、下四四頁。
(12) 同、下七九頁。
(13) 同、下一一六頁。
(14) 同、下一三七頁。
(15) 同、下一五〇頁。
(16) 同、下一六〇頁。
(17) 船田享二、四巻五〇八頁。
四 中間的解決、混種的形態の排斥 第三に、概念、制度を峻別し、いずれともつかない中間物や、両胯をかけた混血児は極力これを排斥する(1)。甲か然らずんば乙かでなくてはならず、甲でも乙でもないものは認められない。人は自由人か奴隷であつて、半自由人と云う観念は認められない(2)。ただ所謂奴隷の地位にある者(in causa mancipi)は、私法上は奴隷類似の地位にあるも、公法上は自由人と云う変態的形態を採つている(3)。法人と組合とは、かつて唱えられた如く、前者が単一性の原理の一本やり、後者は複多性原理の一本やりと云つたものではなく、例えば法人に対する贈与の履行に法人の全構成員が出動すると云うようなゲルマン法のゲノッセンシャフト式な考方——それは単一性と複多性の両原理の有機的な結合物と考えられる——もないわけではないが(4)、なお両者の対立は顕著であり、すべての団体は両者のいずれかに帰属せしめられる。所有と占有とは完全に切り離され、一方は法的権限を基礎とし、他方は事実的な支配を基礎とする。ゲルマン法のゲウェーレが物権の外部的表現形式と云つた関係にあるものではない。従つて、ポッセシオの訴訟では本権の抗弁は認められないが、ゲウェーレの訴訟では、窮極には本権が出動する(5)。物権と債権は截然区別せられ、債務者以外の第三者に対抗可能な債権はなく、特定の第三者に対抗できない物権もないと云うのが原則である。我が現行民法上、賃借権を登記によつて第三者に対抗せしめたり(六〇五条)、共有物に関する債権を共有者の特定承継人に対しても対抗させたり(6)(二五四条)、即時取得の要件を備えた者に物権の回復を拒否したり(7)(一九二条)しているのは、ローマ法起源ではない。尤もローマ法にも、上記の原則の例外をなすものがあるが、多くは第三期ビザンチン期のもので、古典ローマ法の伝統であるものは少い。加害訴権(actio noxalis)が加害者加害動物を現に保有する者に対して提起すべき原則の古典性を疑う者は誰も存しないが(8)、強迫故の訴権(actio metus causa)を物に書き込まれた訴権(actio in rem scripta)として、利得第三者に対しても提起を認める法文(9)、単なる債権者に過ぎない信託受遺者が悪意で信託遺贈の目的を買つた買主に対して追求権を認める——ドイツの普通法時代かかる権利をius ad remと呼んだ——法文(10)、建物の重圧を隣家の壁によりかからせる役権(servitus oneris ferendi)に於ける承役地建物所有者の修繕義務を特定承継人にも対抗させる原則(11)、所有物取戻の実行を請戻費用の支払に牽連せしめる若干法文(12)はいずれも修正を含むものと解せられる。所有権は完全円満な泉の権利で、その点に於ては他の他物権がいかに強力でも、これを所有種と理解する余地はないが、ゲルマン法系では、完全所有権・不完全所有権、上級所有権・下級所有権と云う考は可能であり、分割所有権の考方は成立する(13)。許嫁と婚姻とは、古典時代には、婚姻の予告と婚姻の実行との差異で、後者の規定の或るものを前者に及ぼして、許嫁を婚姻の或る程度の開始と見る思想の生じたのは、第三期ビザンチン期である(14)。遺言相続と法定相続とは相排斥し合つて両立しない。一部の財産については遺言相続、一部の財産については法定相続と云うことはあり得ない。遺言相続か法定相続かである。特定財産についての相続人(heres ex re certa)の認められたのは、軍人の特権的例外を除き、古典時代のことではない(15)。
(1) Schulz S. 49.
(2) ゲルマン法の半自由人観念、栗生武夫「ゲルマンの半自由人制」(「法律史の諸問題」所収)。ギリシャの半自由人観念、拙稿Sav. Z. 58(1938)S. 149.
(3) 拙著、上五四頁、拙稿、国家四三巻五号一〇三頁。
(4) 石本雅男「法人格の理論と歴史」(昭和二十四年)一三六頁以下、拙著、上六六頁、拙稿「古文書古記録の研究」法協五〇巻一二号一三五—六頁、「日本民法総則編の史的素描」法協五七巻四号二一—二頁。
(5) 拙著「日本民法物権編の史的素描」中田論文集二五九頁。
(6) 同、二八三頁。
(7) 同、二六五頁。
(8) 拙著、下一六頁。
(9) 同、一五頁。
(10) Beseler, Sav. Z. 50(1930)S. 66 ff. 拙著、上一五二頁。
(11) この特定承継人に対する対抗については、明白な法文はないようであるが、通常承認せられている。拙著、上一二六頁、一五七頁。この役権に於ける承役建物所有者の修繕義務自体が古典法に属しないならば〔Beseler, Sav. Z. 45(1925)S. 231〕、この対抗性が古典時代に属しないことは当然のことである。
(12) Schulz S. 50.
(13) 拙著、上一〇〇頁、拙稿「日本民法物権編の史的素描」中田論文集二七一—二頁。
(14) 拙著、下八三—四頁。
(15) 同、一一一頁。
五 例外の僅少 第四に、原則の論理を貫徹して、種々の顧慮からする例外や制限などは認めない。この点では、古典法学者の法文は法典編纂人によつて、著しく傷めつけられている。近代の法文批判研究は、法典編纂人が往々sed(=but), si(=if), nisi(=if not)等の語で始まる小文章を以て、原則に対する小さな例外を極めて多くの場合に、創設したことを明らかにしている(1)。一例を選択債務に採ろう。古典時代には、不能による特定の原則は、現行民法(四一〇条)と同一であつた。然るに儒帝法では、債務者に選択権の存する場合に、目的物が何人の責に帰すことのできない事由で滅失した場合には残存給付に特定せず、債務者に不能給付の選択権を認め、又選択権ある債務者の責に帰すべき事由に基づき消失して、残存給付に特定した後、何人の責に帰すべからざる事由に基づいてその残存特定給付も不能となつたときにも、actio doliによる損害賠償の請求を債権者に認めている(2)。このような例外は、前者は通常経済的弱者と考えられる債務者に肩を持つため、後者は債権者に二度も希望を裏切られるのを救済するためと考えられようが、およそ論理に副わないものである。
(1) Guarneri Citati, Indice delle parole frasi e costrutti 1927本語参照。
(2) 拙著、上一五四—五頁。
六 価値判断としての簡単明瞭 簡単明瞭は法の価値判断の対象となるものではない(1)。各生活圏に応じてそれに即したそれぞれの法体系を建てるゲルマン法と比較すれば、ローマ法の方が簡単であるが、それだから良いと云う理由にはならない。具体的な生活に即した法体系と云う点では、ゲルマン法の方が上である。動産と不動産とによつて、異る取扱をするゲルマン法は、同一の取扱をするローマ法よりは煩雑ではあるが、物の具体的な性格を活かす点から見れば、ゲルマン法が優るとも云い得る。概念の広幅は固より簡単であるが、充分の分析の後に聚合せられているのでなければ、牽強附会的に一概念のもとに統率したに過ぎないと云う惧なしとしない。
(1) Schulz S. 46.
七 法学者、勅法の文章 最後に法学者の文章について一言して置きたい。筆者は法学者の法律ラテン語と、文学者その他一般のラテン語を比較することができるほど、ラテン語に堪能な者ではないが、法律ラテン語は一種特別の言語で、アリストテレース風の飾気のないスタイルを模倣したような科学的言語であつて、率直、簡単、明瞭を旨としていると称せられる。勅法のラテン語も、ディオクレティアーヌス帝を含め、同一のことが云い得るが、コンスタンティーヌス帝以来は、レトリックが侵入して、伝統が断ち切られたとシェルツは云う(1)。然しながら、筆者がディオクレティアーヌス帝の最高物価法を通読したときの感じは、「何を云わんとするか明らかならざるほどの誇張と、冗漫に過ぐる美辞麗句を連ねている(2)」としか考えられなかつたのであつて、勅法のラテン語については、いささか判断を異にする。特別なラテン語が成立し得たのは、固よりローマ法が、ゲルマン法の如く、一般人民に自然的に発生した法感情がそのまま法となる民衆法ではなくて、一応法学者と云う職業家の篩にかかつて洗煉されている法曹法であるからである(3)。
(1) Krüger S. 138--9; Schulz S. 56; Francisci, Storia del diritto romano II 1 1929 p. 344.
(2) 拙稿「ヂオクレチアーヌス帝の最高物価並びに賃銀報酬統制令の研究」国家六〇巻九号三七頁。
(3) 八二頁以下。
文献略記号
Bruns-Lenel=Geschichte und Quellen des römischen Rechts in Holzendorff-Kohlers Enzyklopädie der Rechtswissenschaft I Band 7 Auf. 1913.
Dessau=Inscriptiones Latinae Selectae Vol. II pars II 1906; Vol. III pars II 1910.
Friedländer=Darstellungen aus der Sittengeschichte Roms 4 Bde. 8 Auf. 1910(Wissowa補充の最新版は参照不能)。
Gierke=Deutsches Privatrecht I Band 1895, II Band 1905, III Band 1917.
Gierke, Grundzüge=Grundzüge des deutschen Privatrechts in Holzendorff-Kohlers Enzyklopädie der Rechtswissenschaft I Band 7 Auf. 1913.
Grenier=Le génie romain dans la religion, la penseé et l'art 1925.
Jhering=Geist des römischen Rechts 4 Bde. 6-8 Auf. 1921--4 (括弧は京城帝国大学法学会論集掲載の第一巻の翻訳、季刊法律学に掲載中の第二巻の翻訳を示す)。
Krüger=Geschichte der Quellen und Literatur des römischen Rechts 2 Auf. 1912.
Kübler=Geschichte des römischen Rechts 1925.
Marquardt=Privatleben der Römer I 1879.
Mitteis=Römisches Privatrecht bis auf die Zeit Diocletians I 1908.
Mommsen, Geschichte=Römische Geschichte 13 Auf. I 1923, III 1922.
Mommsen, Staatsrecht=Römisches Staatsrecht I Band 3 Auf. 1887, II Band 1 u. 2 Abt, 3 Auf. 1887, III Band 1 Abt. 1887, 2 Abt. 1888.
Mommsen, Strafrecht=Römisches Strafrecht 1899.
Schulz=Prinzipien des römischen Rechts 1934.
Wenger=Institutionen des römischen Zivilprozessrechts 1925.
末松謙澄訳=「十二表法全文訳註」ウルピアーヌス羅馬法範三版(大正十三年)一九一頁以下。
船田享二=「羅馬法」一—四巻(昭和十八年—十九年)。
船田享二=「法律思想史」二版(昭和二十一年)。
拙著=「ローマ法」上下(昭和二十四年)。
CIL.=Corpus Inscriptionum Latinarum PW.=Pauly-Wissowas Realenzyklopädie der classischen Altertumwissenschaft Sav. Z.=Zeitschrift der Savigny-Stiftung für Rechtsgeschichte, Romanistische Abteilung.
法協=法学協会雑誌 国家=国家学会雑誌 京法=京都法学会雑誌
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著 者 原田慶吉
発行日 平成15年8月15日1.0版
平成16年10月09日1.02版
平成19年12月07日1.03版
平成24年05月01日1.04版
平成25年12月10日1.05版
発行者 和田 徹
発行所 和田電子出版
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底本 ローマ法の原理
弘文堂 昭和25年3月1日