発端−外国で自己を語る言葉を持っているか?
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 ことの発端は77年の5月に遡る。
私は大学の建築系研究室の一員として、シルクロードを移動していた。
ギリシヤでの港湾ストライキの影響で予定が大幅に狂い、先発隊の一員であった私はひとりアフガニスタンの首都カーブル(日本ではカブールと標記されるが実際のイントネーションはこれに近い)にいた。
偶々カーブル大学の建築の学生に会い、日本建築について色々聞かれる羽目になったが、彼が出してきた写真は中国の古代建築の写真だった。
それは違うと言いながら、では日本建築を彼にどう説明したら良いのか、乏しい英語力であることを超えて、もっと本質的なところで自分自身の国の何物についても、ほとんど語る言葉を持っていないことに気が付いた。
しかしその時は「日本の建築教育」がおかしいと思うに止まった。

 時代が下って80年代末。台湾で進められていた大仏鋳造に絡む仕事で台湾は高雄に出張した。現地での案内人は当時60歳後半の現地の方。
問うまでもなく聞かされたところでは、日本統治時代に地元高雄の商業高校で成績が良かったところ、先生から東京の大学に行けと言われて、明治大学を卒業することが出来とのこと。
「あの当時は自分達は日本人だった。今の日本の若い人々を見ていると悲しくなる。日本の昔のことを知らなさ過ぎる。八田與一という名前を知らないだろう。それから日本の226事件とは別に、台湾であった228事件を知らないだろう。私は昔の日本が素晴らしかったことを日本の若い人が来るたびに伝えているんだ」
そこで日本に帰って、何冊かの本を読んだ。そんな歴史があったのだ!
なぜ日本の我々は知らないのだろうか? 底の方から疑問が湧き上がって来た。

 その翌年、英国に日系の大学を作るお手伝いで日英を往復していた。帰りの英国航空の便、隣は30歳位の日本人と思しき男性。ところが話しかけて見ると韓国人の技術者だった。そこで話に窮してしまった。
通り一遍の言葉は交わしても何か空虚な感は免れ得ない。自分の軸足が定まらないのだ。
日中韓間の問題はどの地点に立って認識しているべきなのか、基本的に情報が足らないことを痛切に実感した。

 こうした体験は海外に出た日本人の多くが体験していることだろう。
海外で我々が己を語る為には日本という国についての自己認識が必要なことは、多くが認めるところであろう。
ところが未だにこれが困難な状況にある。それはなぜか?

 思い返してみると、1990年頃までは日本自体について(「特に日本の近代史について)、世界的なレベルでの批評に耐えられるような体系的に整理された情報は、世の中にはほとんど流されていなかった。
そして1990年以降は、冷戦構造の終結とともに急速に経済的発展を遂げ始めた近隣諸国の変化によって、今度は内外の政治経済的背景とイデオロギーの鎧を纏った意図的な言動が横行し出すようになった。

 しかしこれら外的状況はあるにせよ忘れてはならないのは、我々日本人自身が語ろうとする努力を怠って来たのではないかとの疑問である。とりあえず戦後民主主義的な安穏とした雰囲気に浸っていれば、何も問題が起きないとする態度である。しかしこうした態度は知的怠惰以外のなにものでもない。

 では一旦、外国に在って自己を、そして日本を語るときに備えて、我々はどうすれば良いのか?
この課題はアイデンティティ形成に関する基本認識そのものである。
つまり我々は今ここに生きる存在として、同時に生きている他の存在との関係性(共時的関係)と、時間を越えて過去から未来に向かって流れる連続性(通時的関係)の交点にある存在なのである。
しかもその交点にあって我々は、言うならば両方の関係から入力される情報を取り込み変形し発信する媒体=メディアなのである
結局、外国で自己を語る局面はメディアとしての有効性が問われている場なのである。

 であれば「共時的関係」と「通時的関係」から生成される情報を総合的に見比べ、有効性あるメディアとして発信する為の修練を積む異が求められる。つまり自分の頭で考え納得の行くまで咀嚼した上で、取り入れる、もしくは捨てる作業を積み上げるしかない。
たとえ一時の判断が間違っていても、自分の頭で考え抜く限り、やがて戻ってくることが出来るはずだから。

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