日本近代史概観 −フランス語の旅行ガイドブック「日本版」への原稿(2004年版) − |
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経緯 昨年(2003年)9月、筆者と20年来の在日フランス人の友人は、日仏間の文化交流ビジネスの一環で訪仏した。 その折に旅行見本市に参加する機会があり、偶々フランスで1,2を争う旅行ガイドブックの出版社ブースに立ち寄ったところ、国別の分冊の中でも特に厚い日本版が目に止まった。 何気なく開いたページに日本のデパートの写真があり、その外壁の垂れ幕の文字が裏返しになっている。明らかに写真を裏焼きにしたミスである。 改めて各ページを見ると、随所にミスが見つかった為、ブースの社員に指摘したところ、可能であればどこが違うか、メールで教えて欲しいとのこと。 帰国後、仔細にチェックして友人がメールを出したところ、2004年度版として出すので、仕事として受けて欲しいと言うことになった。 |
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■フランス人の友人がチェックした主なミスや誤認識のポイント @「ガイジン」と言う言葉は外国人に対する蔑称である!? A日本人はおいしくもないフグを、死のスリルを楽しむ為に食べる!? B神道はアニミズムの一種である。 C日本文化のほとんどは中国から来たもので、オリジナルの文化は少ない。 D近代の日本は侵略的な植民地主義国家だった。 何とかして日本への誤解を解きたいとの思いを具体化すべく、全ページに亘って編集し直し、特に歴史については縄文時代から全て新たに書き起こした。 以下はその近代史の部分。 (なお、現在発売中のこのガイドブックには、友人がフランス語訳を行った全文がそのまま載っている。) |
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開国後近代国家日本を取り巻く状況 19世紀〜20世紀前半の日本の近代史を描くには、当時欧米諸国が争ってアジア諸国の植民地化を進めていたこと、つまり帝国主義の世界であったことから述べるのが公平であろう。 明治維新により開国した日本は、同じように鎖国を続けていた朝鮮に対して、欧米列強に対抗すべく開国を促したが、朝鮮は長年続いた清国の冊封体制の中にあり自ら動くことは無かった。 日本は自国の安全を保つために朝鮮の中立を望んだが、清国はあくまで朝鮮に対する己の宗主権に固執し、ロシアも又朝鮮に対し保護権を主張した。 帝政ロシアはすでにシベリアをその手におさめ、沿海州、満州をその制圧下におこうとしており、その余勢を駆ってすでに朝鮮にまで影響を及ぼそうという勢いを示していた。日本は「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国家にせよ」と主張した。 |
我々が参加したガイドブック |
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自衛戦争の日清・日露戦争 朝鮮半島が他の大国の属国になると、日本海を隔てるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。 日本は外交上の努力を重ねたが、ついに1894年、まず清国との間に日清戦争が勃発し、これに日本が勝つと、そこにロシアが介入して1904年今度は日露戦争に突入した。 日本からみればこれらの戦争は帝国主義の英国、ドイツ等に操られ、腐敗官僚に支配された清国の圧力と、後発帝国主義国としてアジアを手中に収めようとして乗り出してきた帝政ロシアに対する自衛戦争なのであった。 これらの戦争に勝ち、朝鮮半島、台湾、満州(中国東北地方)を手に入れたその後の日本は、それらを支配下に置いたが、当時の欧米流の植民地主義型支配を行なったわけではなかった。つまりそれぞれの国を単純な収奪の対象としたのではなく、鉄道、道路、水道等のインフラ整備と教育に力を入れ、日本本国に準ずる扱いをしたことを見ても、これらの地域に対する日本の意図は明らかである。(例えば朝鮮出身の 洪思翊陸軍中将がいたことは象徴的であり、創氏改名が自由選択の証左である) 日英同盟による第一次大戦参戦 第1次世界大戦が始まると、日本は日英同盟に則り英国の要請に従い参戦した。当初英国は太平洋地域ではドイツとの戦闘を避けたいとのオーストラリア自治領政府の要請を受けてためらっていたが、艦船攻撃目的でドイツ艦隊の青島からの出撃が現実となり、日本に参戦を要請した。 日本はドイツの租借地青島(チンタオ)および旅順港を占領し、ドイツ兵を捕虜にしたが、彼らは鳴門市等、日本国内の収容所で好待遇を受け、この捕虜たちと地域住民との文化交流は今日まで語り継がれている。 辛亥革命と日本 1915年には日本の外務省は辛亥革命で建国間もない中国に対し、21条の要求を送ったが、その中に「中国域内に日本の軍事および経済顧問を駐在させる」との要求が入っていた。中国内に権益を持つ帝国主義欧米列強はその要求に反対し、これら列強と妥協的な政府に対する反発が中国内での屈折した反日感情の形となって煽られ増え始める。 辛亥革命は第3次まで繰り返され、後に今日の中華人民共和国になるが、この革命の父として今日も敬われている孫文を始め、多くの革命の志士たちが日本に亡命し、日本からの支援を得て革命を遂行した。玄洋社等、今日極右勢力と認識されている団体がこうした中国革命の初期段階を助け、一緒に戦ったことはほとんど知られていない。 |
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独立国として生きるために自給自足体制確保 20世紀前半のアジア全体を見れば容易に理解できるが、独立国は日本の他にタイがあっただけで、その他は全て帝国主義欧米諸国の植民地かその傀儡政権になっていた。 このような状況下で、アジアで唯一近代国家となった日本が、工業生産に必要な原料、エネルギー資源を確保するには、日清・日露戦争後、満州(中国東北地方)、朝鮮、台湾が日本の生命線となった。 当時の日本が独立国として生きるために、これらの地域を加えての自給体制を確保する以外に選択の道があっただろうか。 ※なお日本の敗戦後今日まで、アジア諸国に対して日本が侵略的な意図を持ってこの大東亜戦争を始めたかのような論があるが、これについては連合国占領軍司令官として乗り込み全権を掌握していた米国のマッカーサー元帥でさえ占領終了後米国議会において、「日本が開戦に踏み切った背景に侵略的意図はなかった」と証言している。 |
歴史のページ |
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満州に安定的政権を立てた結果の国際連盟脱退 第1次世界大戦以降、日本が強国として認識され始めると、これを嫌って英国、米国が中心となり、1921〜1922年のワシントン会議で主力艦船の削減等、日本の軍事力の制限を行った。 第1次世界大戦以降の不況、1929年の世界大恐慌等を経て、1932年日本は自国の生命線となる満州を安定させるべく傀儡政権である満州国を作ったが、これを国際連盟が認めなかった為、日本は国際連盟を脱退した。 当時の国際秩序は欧米帝国主義諸国がアジアを植民地化しているなかで清が倒れ、中国革命は米国、英国、ソ連等の関与もあり 2度までも失敗し混乱の巷にあった。 言うならば、当時の満州は1979年以降今日まで混乱が続くアフガニスタンのように、軍閥各派が覇権を争う状況で、各国の侵略を食い止める為に、この地の安定が日本には不可欠だった。 日中戦争と大東亜共栄圏 1937年、共産党軍が仕掛けた「廬溝橋事件」(ろこうきょうじけん)により、日本は満州での軍閥との戦争状態に入り、支配地域は満州に限定する方針のはずが、国府軍、共産軍との三つ巴のかたちでズルズルと日中戦争の泥沼に引きずり込まれて行く。 1938年には日本の近衛内閣が「日満華(日本・満州・中華民国)による『東亜新秩序』建設」声明を出し、これに東南アジアをも加えて、「欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序を東亜 (アジア)に樹立する」との「大東亜共栄圏」構想を1940年に発表した。 米国との対立の深刻化と開戦 1932年の国際連盟からの脱退後、当時中国での権益とアジアでの秩序について対立関係になった米国との戦争だけは避けようと、国際的に孤立した状況を打開すべく外相 松岡洋右(まつおかようすけ)は次々と日独伊三国軍事同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)を結んだが、これが完全に裏目に出て、米国との対立がさらに深刻化した。 それでも日本は外交努力により日米開戦を避ける努力を行ったが、米国側が日本への石油禁輸措置を採り、チャーチル英国首相の進言で米国がハル国務長官 (Cordell Hull)名で「中国、インドシナからの日本軍、警察の全てを引揚げること」を戦争回避の条件として打ち出したことにより、日本側は戦争に踏み切らざるを得なかった。 ※これについては後述のパール判事は 「このような苛酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコといえども銃を執って立ち上がるだろう」と述べている。 「八紘一宇」と大東亜共栄圏の理念 日本は欧米諸国の植民地支配に対して「八紘一宇」(世界のすみずみまでひとつの家族=人類はみな兄弟)の基本理念のもとに「大東亜共栄圏」の大儀を打ち出して戦った。 しかし圧倒的な国力の差はどうしようもなく、1945年8月、米国による2発の原子爆弾の投下、日ソ中立条約を破棄してソ連が参戦し、日本政府は 1945年8月14日天皇制の存続等の条件付きでポツダム宣言を受け入れて条件付き降伏をした。(無条件降伏というのは占領軍が出したデマであり、それが今日までそのまま広がっている) |
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極東軍事裁判は「歴史の捏造」とパール判事が告発 こうしたいきさつについて付け加えると、1946年〜1948年に行われた、勝者が敗者を裁く「極東軍事裁判」でも米国による東京等主要都市無差別爆撃、 広島、長崎への人体実験的な原爆投下により60万人以上の犠牲者を出したことが告発されたが、法廷でのパール判事のこの発言は偶然の(?)スピーカー故障で音声と同時通訳が途切れ、議事録からも削除されていた。 一旦休廷し後日開廷後、米国側が持ち出してきたのが「南京大虐殺」問題であり、これが米国による自国の戦争犯罪を隠蔽するデマであることは、証拠調べにおいて明白であるが、今日に至るまで日本国内外ともに認識されていない。 仏のベルナール判事は、「被告の刑量を定める会議に11人が一堂に会したことは1度も無い」と米国中心の6名により裁判が進められたことを内部告発しているし、 インドのパール(PAL)判事はこの裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示した。 そしてこの裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために設置されたに過ぎず、日本の敗戦を被告達の侵略行為によるものと裁く事によって、日本大衆を心理的に支配しようとしていると批判した。さらに、検察側の掲げる日本の侵略行為の傍証を、歴史の偽造だとまで断言した。 同時にかつて欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものであると訴え、全被告を無罪と主張した。 パールRadhabinod Pal 1886-1967 法律家。極東国際軍事裁判(東京裁判)判事。インドのベンガル州に生まれ。東京裁判終了後,52年以降国連国際法委員会の委員などを務め,57年常設仲裁裁判所判事となった。 |
近代史の部分 |
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戦後日本の発展と日米の経済関係の深層 1960年代からの日本の高度経済成長は、効率化、高品質化、小型化をキーワードとして70年代の2度の石油危機を乗り越え、大きな勢いで進んだ。 1985年、当時過度なドル高の対策に頭を痛めていた米国の呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルに先進国5 カ国の大蔵大臣(米国は財務大臣)と中央銀行総裁が集まり会議が開催された。この会議では、ドル安に向けた各国の協調行動への合意が発表された。これがプラザ合意である。 これにより、日本の円の価値が膨らみ、生産財への投資限度を超えた円は日本国内、および米国の不動産資産に流れ込んだ。この会議前に 1ドル=242円であったが、1988年の年初には、1ドル=128円をつけた。 これにより日本経済は空前の好景気に入り株価も急進したが、やがて異常高値の株価が1991年2月から急落し、急速に経済が萎んで行った。バブル経済の破裂だ。 しかしこの一連の動きは、日本が稼ぎ出した富を注ぎ込んで高値で米国の不動産や国債を買い込み、円の価値を暴落させることで、これらの財産を安値で手放すと言う、日本から米国への富の移動をもたらした。 それ以後、毎年打ち出される日本政府の経済施策は奇妙なことに、今日においても米国に日本の資産をプレゼントする結果をもたらすことに変化はない。 2002年〜2003年には日本政府は日本の主な銀行を統合し、みずほ銀行、東京三菱銀行、三井住友銀行を中心とする、メガバンクを作り出した。しかしいずれも限りなく 0%に近い公定歩合と低い株価である限り、不良債権は減るわけもない。これらの巨大銀行が米国系のハゲタカに死肉を食べられるのも時間も問題なのかも知れない。 戦後の「平和憲法」と憲法改正の圧力 現在の日本国憲法は日本が大東亜戦争に敗戦後、1946年に米国の占領下で占領軍の「指導」の下に作られたものである。 特に戦力の放棄と交戦権を否定している第9条には、米国による日本無害化政策が端的に現れたものである。 朝鮮戦争(1950年〜53年)で共産勢力との対峙するようになると、米国政府は日本に自衛隊を作らせ、東アジア地域の軍事的なバランスを取る様に方向転換して、その後同盟関係となった日本に軍事的負担を強いるようになり、 その流れが湾岸戦争、昨年来のイラク戦争にまで続いている。 この間、日本国内で様々な議論はなされて来たが、政策決定の背後には一貫して米国の意向があることは明らかである。 このように第9条の条文や表向きの議論とは関係なく海外派兵が行われているが、近年米国自体が日本の独自の判断に移行しようとの考えから、現実の状況に憲法の条文を合わせる方向が明確化している。 |
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