日本古代史概観
−フランス語の旅行ガイドブック「日本版」への原稿(2007年版)−
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経緯
3年前(2004年)、フランス語圏で手に入るほとんど唯一の日本旅行ガイドブックのあまりに酷い近代史を修正した。(日本近代史概観)
幸いこのガイドブックの評判も良いようで、改訂版の依頼が来た。
このガイドブックは日本で言うと「地球の歩き方」に近い内容とボリュームで、日本版では47都道府県を網羅している。

■今回の改訂版での変更ポイント
(1)お勧めの旅行コースをまず3案提示
  @“サムライ”時代の街並みと洗練された美の世界を訪ねる旅(金沢、高山、白川郷)
  A日本の豊かな自然および一体となった文化をたずねる旅(白神山地、八甲田山、三内丸山遺跡)
  B日本人の精神の原点を探る旅(伊勢神宮、飛鳥京、奈良)

(2)2004年度版での近代史概観につづき古代史概観を提示
 近年の栗本慎一郎氏の著書等で明らかになった諸事実を参考にして、下記の3点を主軸にした。
  @縄文時代の諸遺跡と遠く英国に残るストーンヘンジの背後にある精神に近似性が高く、ユーラシア大陸全体に共通する精神文化の存在を示していること。
  A縄文時代から記紀までのユーラシア大陸との交流に触れ、日本が古代から圧迫された民の目指す地としてあったこと。
  B渡って来た諸グループが「統一」ではなく「統合」つまり「和」の精神を基盤として成立させたのが日本であったこと。


旧石器時代(5万年前〜13000年前=BC11000年)
ミトコンドリアDNAの解析から、日本列島には約5万年前に人類が住み始めたことが分かっている。同じ解析からは現代の日本人は東ユーラシアの各民族との共通性が高いが、一部にヨーロッパの民族の特徴的DNAも発見されている。
つまり今日の日本人はユーラシア、東南アジア、オセアニア各地の人類グループと共通性の高い祖先によって形成されものであることが分かっている。

縄文時代(BC11,000年〜AD300年頃)

縄文時代こそが今日の日本文明の基本形を形成した時代である。「ジョウモン」とは発掘されたこの時代の土器に特徴的な縄の模様(これをジョウと読む)を押し付けた模様(モン)のことである。 三内丸山遺跡(青森市:約BC3,500〜BC2,000年)からは数百人の集落跡、400名の集会が出来る大型建造物、6本の栗(クリ)の巨木柱(直径1m以上)が発見された。
この集落からは日本各地や沿海州(ロシア東部)の産物が見つかっており、大型建造物はこれら産品の市場だったらしい。
また6本の巨木柱は夏至の日の出と冬至の日没の方角を示しており、太陽に関する信仰の存在を裏付けるもので、今日の神社の原型なのかも知れない。(同時代のイギリスのストーンヘンジが夏至の日の出を示していることと共通の意識が感じられる)


6本の巨木柱と400名収容の竪穴式大型建造物(三内丸山遺跡)



渦巻き文様のある縄文式土器
(笠舞遺跡出土:金沢市)

日本文明が木と自然地形を利用した持続型である為、古代の遺跡の多くは現在も人が住んでいる土地でもあり発掘できないところも多いが、三内丸山遺跡やチカモリ遺跡(金沢市)のように全容が分かるものが見つかり、その豊かな生活が分かって来た。
たとえば主食は栗(クリ)、クルミ、トチの実であり、その人工林を集落の周囲に作っていた。(三内丸山遺跡を取り囲んでいる森等)また土器の付着物から、野山の植物と魚や海草を一緒に煮込んでスープを造っていたことがわかっている。(世界中でフランスと日本が特にスープにこだわる文化だとも言われる)


弥生時代(BC5世紀中葉〜AD3世紀中葉)
水田を使った米作りが持ち込まれ、本格的な農業が始まった。貧富の差、身分の差が生じ、村落間での水争いも起こり、村落の連合から国家の原型とも言えるクニが出来た。ただし縄文文化は根強く、特に東北地方では並存していたらしい。(住居形式を見ると日本の伝統的農家の形式は縄文時代の竪穴式住居と大きくは違わず、この点からも日本文化の基本は縄文時代に形成されたと考える人も多い)

古墳時代(3世紀中葉〜6世紀末)
北海道、沖縄を除く日本に4つ以上の国家が形成された。それらは南から邪馬壱国(やまいこく)、文身国(ぶんしんこく)、大漢国(だいかんこく)、扶桑国(ふそうこく)である。
この扶桑国の自己呼称がヒノモト(日本)であり、ここからニッポン(日本)の呼称が生まれた。
これら国家は衝突と連合を繰り返したが、この古代王権の権力と権威を表した王の墳墓の代表的なスタイルが世界最大の墳墓である前方後円墳であり、九州東部から東北地方まで日本各地に点在している。
そこには山や池や森を人口的に作り出す土木技術と、美的感覚が発揮されている。
最大の仁徳天皇陵(ニントクテンノウリョウ)は長さ486mにも達する。

飛鳥時代(6世紀末〜8世紀初頭)
古代王権の一つ、強大な軍事力を持つふそうこく扶桑国の主導で連合国家として日本が生まれ、その首都が飛鳥(アスカ=現在の奈良県明日香村)に定められた。
扶桑国出身でユーラシア北方騎馬民族系と推測される蘇我(ソガ)一族の女帝推古(すいこ)天皇と摂政の聖徳太子は太陽遥拝型の仏教を広め、隋(中国)との対等な貿易を行った。また17条の憲法、行政官の身分制度、戸籍、税制および徴兵規定を定めた。
権力と権威を分ける統治手法(双分制)、特に権威を体現する天皇制が実質的にこの時代から始まった。しかし政権内部でクーデターが起こり、蘇我一族に替わり藤原一族が以後400年以上にわたる宮廷政治の中枢を握った。
607年には世界最古の木造建造物である法隆寺が建設された。


仁徳天皇陵(大阪府堺市)
写真「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」から

奈良時代(710年〜794年)
藤原一族は唐(当時の中国の王朝)との交流を盛んに行い、唐の都に倣ってグリッドパターンの都市計画を導入し、首都平城京(ヘイゼイキョウ、現在の奈良市)を建設した。また藤原一族と歴代の天皇は中国経由の仏教と身分制度や税制、徴兵制により中央集権国家を目指したが、中央では政争が多く起こり、元来扶桑国=蘇我一族の勢力圏であった東日本の背反勢力との戦争も絶えなかった。こうした背景から藤原一族と天皇を正統性を主張する古事記、日本書記、その文化の美しさを訴求する万葉集など日本最古の史書・文学が生まれた。


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